法人の歴史③
 85周年。今こそ温故知新の精神で―。
ゆんたく都島 臨時号(2016.7)

皆様にはご多忙な中、6月11日に開催いたしました85周年発表会、6月20日の「みやっこまつり」にお運びいただき、誠にありがとうございました。発表会での子どもたちの歌や踊り、パフォーマンス、本当に素晴らしかったです。職員の発表では、職員のみなさんの日々の勉強ぶり、精進しているその成果が披露され、感銘いたしました。また「みやっこまつり」では、ボランティアの方をはじめ地域の方々にも数多く参加していただいて本当に感謝申し上げます。

初代 比嘉正子、2代目 仲田貞子、そして3代目理事長として私、渡久地歌子がつなぎつないで85年、ようやく今日ここまで歩んでくる事が出来ました。その間、多くの皆様との出会いがあり、ご指導、ご支援、ご協力いただきました事、ここに改めまして御礼申し上げます。

85周年発表会では、都島友の会の成り立ちや原点、そこから生まれた理念など、法人の歩みを職員たちの作った映像でご紹介させていただきましたが、私自身、映像を観ながら、「ああ、こんな事、あんな事があった」と、それぞれの時代や出来事が走馬灯のごとく浮かんでは言葉にならぬ思いが心に去来しておりました。

今から75年前、日本は戦争という大きな、大変つらい出来事を経験いたしました。その中にあって比嘉正子、比嘉家にも、暗雲立ち込めるように悲運、不運が次々と舞い降りてきました。「勝つと信じた戦いに敗れ、そのうえ1944年の1月と2月に続けて2人の子を亡くしてしまい、私はなんて愚かな母だと悔やみきれぬ後悔の中、再びもう仕事はすまいと懺悔の日々だった・・・」と、後年比嘉先生が私に話した時の表情が今も私の瞼に焼き付いて離れません。

昭和20年3月、大阪市内の三分の一は焼野原になり、多くの人命が失われました。都島も京橋から北一面は焼野原になったそうです。その年の8月、日本は敗れ、戦争が終わります。当然昭和6年からあった都島幼稚園の園舎も灰となり、何も残っておりませんでした。衣食住、何もかも足りない、その日その日を必死で生き延びてきた話をよく聞きました。「都島の焼け跡地にはお腹をすかしている子どもたちがいっぱいだった。地べたにあったものを拾い食いしている子どもたち、生きるための労働に育児にと疲れきった母親の姿、小学生の子どもが幼い兄弟を背負って学校へ行き、教室ではその子の妹や弟がうろうろしている姿を目のあたりにしてしまうと、亡くしてしまった我が子の墓を建てようと必死に蓄えていたお金を、生き残ったこの子たちのためにこそ使うべきだと決意した」と、都島児童館建設への想いを語った話を聞くたび、私は涙がとまりませんでした。今も皆さんにこの事を伝えようとすると胸がはち切れそうになります。

終戦後、法整備も何も全く整わない中、お国や行政には頼れず、しかし目の前の困窮し苦しんでいる親や子どもたちに何が必要なのか、どうすれば彼らを救うことができるのか、ご近所の皆様や卒園生たち共々園の建設を手伝っていただき、寄せ集めの材料で拵えたあばら屋のような園舎とはいえ、それでも子どもたちにとっては雨風がしのげて楽園だったとのことです。習字・そろばん・絵画・宿題と、再建された児童館で子どもたちは勉強をし、ペコペコだったお腹もお味噌汁やいろんな具材が入った”ごちゃごちゃ煮“を食べ満たされて育っていきました。毎年3月に皆さんが材料を持ち寄って作る法人伝統の『ちゃんこ鍋』はまさに”ごちゃごちゃ煮“が由来です。「おいしいですネェ、夕食代わりに楽しんでいます」と言っていただける法人の名物にもこのような歴史があったのです。現在80才前後の皆様からは、「児童館があってどんなに助かったか、ありがとうナ」「父や母も児童館があったから安心して働けた感謝していたヨ」と今も児童館があってどんなに助かったか話をして下さいます。地域の皆様がいまだに法人を都島友の会でなく、親しみを込めて「児童館」と呼んでくださっているのもその名残りです。

法人の歴史や理念を語るとき、私たちはともすれば比嘉正子という創設者、法人設立以降の変遷や経緯だけを語りがちです。しかし法人の原点を考えてみますと、大正10年わが国最初の社会福祉施設として設立された大阪市北市民館、そして初代館長を務められた志賀志那人先生の存在を忘れる訳にはいきません。比嘉正子は昭和6年に都島幼稚園を設立するまで、大阪北市民館に保母として働いておりました。大正時代の後半、大阪市北市民館のあった天六周辺はひどいスラム街の真っ只中でした。そこで保母として働いた体験、そして志賀先生に対する尊敬や共鳴、さらには志賀先生から「貧しきもの弱き者たちのための幼稚園を作れ」との教示が、その後の彼女の人生、そして法人の設立に多大な影響を与えることになります。あるいは、比嘉正子が17歳の時、沖縄から単身大阪に来て、”留学生“として在籍した「パプテスト女子神学校」、現在の大阪市淀川区にありますミード社会館の前身にあたるものですが、後年比嘉は、「パプテスト女子神学校は文化的で清々しく、本当に清楚な感じのする学校であった。毎日バイブルを勉強の基礎とし、講議や実習は厳しかったが、校長、教頭はじめ多くの先生達は極めてヒューマンで、日常の中に自由とユーモアが溢れていた。男子のバイブルクラスもあり交際も自由であった。私の人間形成はこの時期にこの環境でなされたと思う。」と自らの手記に書いております。最も多感な時期に校長先生であったミス・ミード、彼女は生涯”日本の女子教育とキリストの伝道に捧げた方“ですが、ミス・ミード先生から受けたキリスト精神、人間としてのあり方、さらに学生生活で味わったアメリカの開明的で先進的なモダニズムや自由主義、男女平等の空気など、彼女が100年前に受けた教育は、北市民館での経験、志賀志那人先生の薫陶と共に、その後の人生の礎となり、私たち法人の理念にも大きな影響を与えていると思います。

比嘉正子という女性に様々な出会いがあり、そのことが彼女の人生に大きな影響や力を与えているように、私たち法人にも、それ以前から培われてきた日本の福祉、その歴史や先人たちの存在があることを忘れてはならないと思います。特に大阪には先ほど申し上げた北市民館をはじめ、日本の社会福祉、地域福祉の先頭に立ってきた多くの先達の方々、その長い歴史があります。それらの方々のお力や土台の上に立って現在の私たちがあること、そのことをもう一度深く胸に刻まねば、と思います。

さて昨年、日本は、幼保連携型認定こども園をようやく発足させました。教育の質の向上や見直し、とりわけ幼児教育の見直しや整備は喫緊の課題でありました。これまで日本では、「これは厚労省、ここまでは文科省」と、いわば大人同士の力関係があり、なかなか前に進みませんでしたが、内閣府指導のもと、ようやくのことで出発しました。但し、なんとか一歩踏み出したものの、様々な要因もあり、大阪市にあっては幼保連携型認定こども園への移行は数カ所しか進んでいません。子どもたち、幼児に今本当に何が大切か、人間としての育ちのなかでの教育、保育養護の大切さをもっと声を大にしていかねばなりません。

あるいは人口減少化社会を迎えた今日、高齢者の問題、若年層の雇用情勢の悪化、地域コミュニティの脆弱化など多くの課題が山積し、しかも国家財政の緊迫化する中で、すべてを国頼みする訳にはいかない状況になっています。またこれまで日本の福祉の一翼を担ってきた社会福祉法人も、制度改革や取り巻く環境の変化の中で、その役割や存在意義が大きく問われています。

これまで何度も申し上げていることですが、私たち法人の福祉の目標は、”揺りかごから墓場まで“生涯にわたって地域や地域住民の方々と社会福祉活動を通じて関わり、「すべての人が健康で文化的かつ快適な生活が守られ、豊かな人間生活が実現できる」ことを目指し活動しています。昔、比嘉正子は申しました。「人間は本来、皆な平等である。しかし生きていく社会の中には矛盾や不平等もたくさんあり、その不平等をいかに少なくしていくか、そして貧しい者、弱き者、権力のない者、制度や社会から零れ落ちた者に寄り添い、彼らの力となるべく社会事業に身を投じていかねばならない」。
まさしくここに福祉事業、福祉の原点があると思います。

『温故知新』―。創設85周年を迎えた今、私はこの言葉、この精神を再び思い起こし、先人たちが培い、切り開き、継承してきたその土台に立って、私たち一人ひとり、そして法人全体が力を合わせ、過去、現在、未来を”つなぎつないで“、本当にこの法人を引き継げて良かったと思えるよう、頑張ってまいりますので今後ともよろしくお願い申し上げます。

85周年挨拶

法人の歴史②
 創立85周年を迎えた都島友の会
ゆんたく都島 Vol.24(2016.3)

85周年

平成28年3月1日、都島友の会は85周年を迎えました。

法人の誕生した大阪市都島区は大阪市の北東部に位置します。設立当初(昭和6年)の都島は日本の近代化に支えられた大阪市の急速な発展によって、農村から住宅地・工業地・商業地の混在化した市街地へと大きく変貌を遂げました。しかし戦争が始まり、大阪大空襲で都島は焼け野原となり、敗戦を迎えます。

戦後、焼け野原から出発した日本の中で、都島も高度成長と共に繊維業や軽工業を中心に発展、人口も増加して行きましたが、昭和40年代後半から公害等の問題で工場は地方へ移転し、人口も昭和40年の3万1303世帯をピークに減少をたどります。

その後、繊維工場等の広大な跡地は大規模な超高層マンション群に生まれ変わり、市立総合医療センターや福祉施設、毛馬桜宮公園、淀川開発等々、また生活関連施設も整備され、水と緑に恵まれた魅力あふれる”街“に変貌を遂げました。世帯数も平成26年には、5万1452世帯になるなど、ドーナツ化現象から都心回帰現象へと時代社会の変遷とともに人口も増え、子どもの数も増加していきました。

現在、都島区は65歳以上(高齢者層)の世帯が3万1303世帯に及び、少子高齢化の進行や居住家屋の老朽化、核家族化や単身世帯の増加等々、ご多分に漏れず日本社会の抱える幾多の問題が集約されたように、課題もまた山積しています。

私たち法人は、日本はもとより、このようにも変遷してきた都島区の歴史と軌を同じくして変化を遂げて来たのではないかと思います。先日、古い資料を整理していると、比嘉正子が、60周年(1991年)を迎えた時のことばがありましたので、すこし紹介したいと思います。

『…私は、昭和6年、26歳の時、3人の乳幼児を育てながら青空幼稚園を始めました。名もなく、金もなく、地位もなく、あるものは銀行員の夫と3人の子どもだけです。大阪北市民館の館長であった志賀志那人先生から「キミ、都島へ行って幼稚園を作らないか、子ども3人育てるのも20人育てるのも一緒だよ。人間が作った建物だけが園舎ではない。ブランコやすべり台だけが遊具ではない、天然自然、神様はおのずから子どもたちに素晴らしい恵みを与えて下さっている。木の陰や、野原、公園は、みなこれ園舎である。石ころ、虫けら、花や木の葉、土など、これみな子どもの恩物だよ。」とお話しされました。尊敬もし、社会福祉の先達者として著名な先生の迸る保育理念のひとこと一言が身に染み、眠っていた社会事業への情熱が炎のごとく燃え上がり、やれるような気持ちが芽生えて「よし、やろう!」と決心するまで、2日とかかりませんでした。

開園をPRしてみると、45名の子どもが集まり、3名の女性が奉仕を申し出てくれました。園の名称は「北都学園」。今にもでっかい立派な学園が出来そうなイメージの名前と看板でした。借家の間口3間ぐらいの集会場で点呼を終えると、都島小公園で歌ったり、木陰で紙芝居やお話、お遊戯、ゲームをするのが日課でした。子どもの楽隊を編成して、プカプカドンドン太鼓を鳴らし、趣を変えて区内を行進したり、私の3名の子どものうち下の子は乳母車に荷物と一緒に積み、上の2名は園児と一緒に保育という毎日が続きました。雨の日は、狭い土間でピアノを弾いて歌とお話し、昼まで時間がもたず、午前中保育で切り抜けたりもしましたが、昼からの分の保育料をお返ししなければと本気で心配しました。

半年後、地元の山野氏にお願いし賃貸の園舎を建てていただき、土地、建物をお借りしました。当初1円だった保育料を2円に値上げ、その中から家賃を支払いました。園児も80名になり、ようやく安定した保育を続けることができるようになりました。戦争が始まり戦時体制となった頃には300名の子どもを預かるまでに膨れ上がりました。戦争の嵐の中では長時間保育は当然、避難訓練が日課の保育でした。食糧難、薬、衣類、履物、無い無い尽くしの中、昭和19年1月、2月と続いて、我が子2名を病死させてしまいました。昭和20年6月には、大阪第2回目の大空襲で園舎は焼失、ちょうど3月に休園しており、子どもたちの命は、守れました。

昭和20年8月、終戦。疲れ果てた母子が「夫が戦死しました。」「生活に困っています。」「働き口を探しています。」「子どもを預かって下さい。」「助けて下さい」等と訪れ、仏心が湧いて「よし、死んだわが子の墓を建てるより先に、生き残った人達の為の保育園をつくろう!と再び決意をして、昭和24年に都島児童館を再建、財団法人第1号として認可を受けました。

顧みて60年間の道のりは険しかったです。私たちは0才児保育も民間保育所の草分けでもありました。戦後のバラック小屋の様な建物も今日では鉄筋コンクリート建となりました。0才児から就学前の子どもたちを預かり、学童保育、さらには発達に療育を要する子どもたちの施設と、9カ園の施設になりました。今では1日1000名前後の子どもたちが出入りしています。

これまで私は子どもたちから多くのものを学びました。子どもには、子どもの世界があり、夢があります。時々、刻々と成長してゆく子どもたちには、未来があります。私の夢を子どもたちに託していきます。…』

戦前、戦中、戦後と法人の歩んだ道は、乳幼児や障がい児の保育・教育・療育はもとより、女性や生活者、地域や高齢者へと広がる日本の福祉事業の歴史そのものでした。

比嘉正子が亡くなった1992年以降、日本は本格的な少子高齢化社会を背景に、1997年(平成9年)に児童福祉法が改正、2000年(平成12年)には高齢者向けの保健・福祉サービスを統合した介護保険法が施行され、児童や高齢者をはじめとする福祉のあり方は大きく転換していきます。また昨年2015年4月からは、国の教育再生のためのグランドデザイン「子ども・子育て支援新制度」による「幼保連携型認定こども園」がスタート、私たち法人でも都島児童センター、都島友渕保育園、成育保育園が、それぞれ認定こども園都島児童センター、友渕児童センター、成育児童センターとして新たな出発をすることになりました。

今日、日本は人口減少社会の中で、止まらない少子高齢化の進行、核家族化や単身世帯の増加、終身雇用の変化や若年層の雇用情勢の悪化、地域社会における支え合いの脆弱化など多くの課題とともに、都市部では待機児童の問題、あるいはこれまでの公的な支援では対応しきれない「制度の狭間にある」社会的排除や地域の無理解から生まれる新たな問題も起こってきています。またこれまで日本の福祉の一翼を担ってきた社会福祉法人を取り巻く環境も、日本の社会の構造変化や経済的状況等から大きく変化し、あらためて私たちの存在意義が問われています。

私たちは創立85周年を迎えるにあたり、法人全体、職員一人ひとりが、法人が歩んで来た社会福祉活動、その理念や目標を今再び深く振り返り、再確認することで、これからも皆様の信頼に深く応えられる地域に根差した社会福祉法人として、更なる前進を図りたいと考えています。またこの1年、6月に開催する「都島友の会 創立85周年記念発表会」をはじめ、記念行事や講演、研究発表会、各園での運動会や発表会、地域イベントの参加等を通して、地域のさまざまな福祉施設やボランティア、NPO、そして住民の方々と深く連携し、安心して次世代を育むことのできる「暮らしやすい地域づくり」、その第一歩となる取り組みを行っていきます。どうか共につながり、共に結ばれ、共に支えあい、新しい都島をつくっていきましょう。

理事長先生と一緒に
(都島児童センター、都島乳児保育センター、都島第二乳児保育センターの職員たちと一緒に)

法人の歴史①
 戦後70年。節目の年に―。
ゆんたく都島 Vol.23(2015.9)

「子ども・子育て新制度」がスタートして、約半年が経とうとしています。一歩踏み出したかのように思いましたが、少々混乱しているようです。今までの保育園・幼稚園が残ったまま、そこに認定こども園が新たにつくられ、三様の施設ができてしまいました。法律的にも保育園の子どもは児童、幼稚園は幼児、幼保連携型認定こども園では園児と、子どもの名称が三つもあることになります。新制度への移行は大人同士の綱引きというか、いろいろ大変な作業でありました。煩雑なことも多く、申請書など膨大な書類の山、そのような中、都島友の会は新制度の幼保連携型認定こども園(3園)と保育所型保育(大阪5園・沖縄2園)の2本柱で出発しました。保護者の皆様には3月から4月にかけて、法人の成り立ち、新制度への移行についてご説明させて頂き、事務的な手続等にもご協力賜りました。

もちろん制度変更があろうと子どもたちは今迄と何ら変わることなく、みんなよく遊びよく学び、子ども同士いたわり合い、譲り合い、時にはそれぞれ我も張ってと、本当に邪気のない、心なごむ有り様は以前と同じです。知・徳・体、皆さん本当にバランスよく成長されていると思います。

変化があると言えば、こちらの側でしょうか。午前、午後の過ごし方にも変化があり、職員間の話し合いも多くなり、幼児教育と保育、養護、法人の理念・基本指針・教育・保育目標等の確認や振り返りなど、様々な事をしっかり共有できるようになりました。また私たちの働くこの場所は、子どもたちの生涯に渡る大切な人格形成の基礎を培っていく場である事を再認識し、そのことから法人の宝というべき数多くの資料を改めてまとめ直す良い機会ともなりました。

0才児保育から始まり、そこから小・中学校へいたる長い橋渡しともいうべき保育・幼児教育のまとめ、リスクマネージメントや危機管理、管理職としての事業計画、職員の手引き(心得、研修について、実践、報告、まとめ)などなど、多種多様な分野の法人の大切な資料や知恵を、いま各園、各職員たちが、分かりやすく今後の世代にも引き継げるようにと、編纂し新たに作り直す作業に勤しんでいます。

さて振り返りといえば、今年は戦後70年の年でした。安倍首相の戦後70年談話をはじめ、日本の戦後を振り返る数多くのメディアの特集、論説がありました。戦後といえば、私ども都島友の会の創設者、比嘉正子には社会福祉や幼児教育の担い手のみならず、その後半生には多くの人々にその姿を知らしめたもう一つの大きな活動があります。

比嘉正子は沖縄で生まれ首里パプテスト教会で洗礼を受け、17才で大阪パプテスト女子神学校(現在 淀川区のミード社会館)に留学、卒業後、大正12年大阪市立北市民館の保母となり、昭和6年には都島幼稚園を設立しました。以降、幼児保育を中心とする社会福祉事業に邁進し、戦後は日本で初めての乳幼児保育を始めるなど、まさに戦前、戦中、戦後を社会福祉や幼児教育に一身を捧げ、波乱万丈の生涯を駆け抜けてきたのです。

一方、終戦後、戦争中の疎開地であった大阪鴻池新田(現在の東大阪市)で子どもたちの空腹や飢え、社会の混乱に立ち上がるべく、地元の主婦たちとともに「米よこせ」の陳情を始めます。日本の戦後史に残る「主婦の会」、後の「関西主婦連合会」の誕生です。そして戦後の時代を、消費者運動、婦人運動、女性解放、女性教育へと活動の場を広げ、政府の各分野の諮問委員も数多くつとめ、晩年は行政改革に力を注ぎました。社会運動家としての比嘉正子の姿です。

社会福祉から児童教育、消費者・婦人運動・・・、比嘉正子の幾多の顔に人々は戸惑うかもしれません。またその旺盛なバイタリティの源はいったい何だと呆れる人もいるやもしれません。沖縄、パプテスト女子神学校、大阪市北市民館などでの出会いやそこで培われた思想や信念、さまざまに答えはあるでしょうが、昭和20年8月の終戦、焼け野原の中でお腹をすかし、さ迷う子どもたちを何とかしようと、まだ憲法も児童福祉法もない混乱の只中にあって、今、手を差し延べなかったらこの子たちは死ぬ、病気になる、教育が受けられない、目の前にある差し迫った現実を何とかしようと、法人の戦後の原点である「都島児童館」を設立、已むに已まれぬ使命感で飛び込んでいくその力こそが、比嘉正子のあらゆる活動の原動力、源だったと私は思います。

「都島児童館」、そこは、そこに行けば何か食べられる、習字、そろばん、絵、ピアノ、何でも習える、勉強も教えてくれる、まさに子どもたちの集える場所でした。幼児クラブ(短時間)・保育クラブ(長時間)・学童クラブ(放課後クラブ)・教育クラブ(習字・そろばん・絵・ピアノ等お稽古)、そして母の会、女性教育部等があり、子どもも大人もそこでさまざまな活動や経験を通して、数多くの事柄を学んで巣立っていきました。

花にはお日様 子どもに平和

強い子 良い子 三つ子の魂百まで

目を離すな 手を貸すな

温故知新

当時から変わらぬ法人の子育てのスローガンです。

法人の基本理念

社会福祉法人都島友の会は、多様な福祉サービスを総合的に提供できるよう創意工夫し、利用者の個人の尊厳を保持しながら、子どもたちの心身ともに健やかな育成と、個人が持っている能力に応じ、自立した日常生活を地域社会において営むことができるよう支援することを基本理念とする。
平成27年3月迄に当法人を卒園していった子どもたちの人数

戦後、私たちの法人から子どもたちは大きくたくましく育っていきました。子どもたちはやがて成人となり、戦後の日本の社会を担っていきました。

私どもが日本の社会福祉・教育の一大改革である今回の新制度に迷わず手を上げたのは、私たちの原点「都島児童館」が現在の「子ども、子育て新制度」のまさに先駆けであり、この制度が私たちの原点へ回帰する一大契機だと再認識したからです。法人の各施設がこれからもいっそう地域ために貢献できるよう、地域の皆様に利用しやすく子どもを安心して預けられる施設となれるよう、そして何より子どもたち自身が心から楽しく、自ら自身がすこやかに成長できる子どもの楽園であり続けることを願っています。またそのために職員一同、なおいっそう精励する覚悟です。

さてこの夏、私どもの運営する『比嘉正子地域貢献事業研修センター(ひまわりネット)』の5階に、上述した比嘉正子の婦人運動・消費者運動の歴史資料をまとめた「比嘉正子記念室~戦後の礎を築き~」を開設しました。日本の消費者運動、婦人運動の歴史の一端をご覧いただけると思います。また私たち法人の歩みや社会福祉関係は都島児童センター本部2階に、資料室を設置しております。興味のある方は是非お気軽にお立寄り下さい。

※比嘉正子地域貢献事業研修センター(ひまわりネット)は、創立者比嘉正子の意志を引き継ぎ、近年社会問題化している、貧困の連鎖で教育の機会が奪われる「子どもの貧困問題」等をはじめ、子どもたちの生命や育ちを守り支援していくプラットホームとなろうと開設運営しています。理屈だけでなく行動あるのみで、ささやかでも前進するのが我々の役目と思っております。どうか子育て、介護などで悩んだら、迷わずお気軽にご相談ください。
◆比嘉正子地域貢献事業研修センター 大阪市都島区都島本通3-16-8

認定こども園 成育児童センターの子どもたちと共に
(認定こども園 成育児童センターの子どもたちと共に)