私たち法人はこれまでの長い歴史の中で、多くの諸先輩が子どもたちのため、より質の高い保育、より快適な環境の提供を目指し、様々に工夫を重ね、研鑽してきた優れた保育法や幼児教育等のメソッドがあります。そのノウハウを分かりやすく誰にでもわかるようにまとめていこうと、ここ数年、職員たちがチームを組み、乳児保育、幼児教育、養護、そして看護と、それぞれ一冊のガイドブックにまとめようと奮闘してきました。 その職員たちの奮闘の賜物である出来上がったそれぞれのガイドブックの冒頭に、私がプロローグとして、乳児保育、幼児教育、養護、そして看護、それぞれの歴史、歩みを拙いながら簡単に振り返った文章を記しました。私たちの法人を少しでも知っていただくためにも、ここ数回にわたり、その文章を掲載したいと思います。

都島友の会の保育、教育、養護、看護
 ③都島友の会の看護の歴史

この冊子は都島友の会看護師連絡会の職員が、子どもたちの健康や安全を守る体制づくり、保育保健の質の向上を目的にまとめてくれたものです。

創設者比嘉正子が都島幼稚園を設立してから平成30年(2018年)3月1日で87年を迎えました。法人創設から今日に至る、その間、わが国は様々な大きな出来事や変化がありました。特に昭和16年から20年にかけての大戦、そして昭和20年8月15日の終戦は、我が国の歴史を二分するような大きな出来事であり、その中で人々は生きていくための最低限必要な衣・食・住が不足するという大変な経験をし、その厳しい環境下にあっても法人は、子育て支援を続けてきたという歴史を有しています。(少し触れておきますと、比嘉正子はこの間、個人的にも大変辛いことがありました。昭和19年(1944年)1月19日、2月20日と短い期間、続けさまに15歳と13歳のわが子を相次いで亡くしています。)

太平洋戦争末期である昭和20年3月、そして6月、大阪は二度の大空襲を受け、都島も焼け野原となり、亡くなる人、逃げまどう人々、そして多くの傷病者が出ます。そして敗戦・・・。 戦後も医療機関には医師、看護師も少なく、当然医薬品や医療機器も不足、ただ生きることだけで精一杯の中、子育てや保護者に手を差し伸べたのが都島児童館でした。乳幼児保育、障がい児保育、短時間や長時間保育、学童に教育クラブ、母の会、働く保護者の支援等々、法人は様々に支援の輪を広げます。

その原動力になったのが比嘉正子の体験を重ね合わせた『子どもを亡くした母の切ない思い』であり、『無知と貧困が病魔を広げる』との福祉事業から学び取った切実な経験則でした。そこから“子どもの命を預かる大切な事業”を行うには〈地域医療・低所得者救済・女性保護救済〉が不可欠であり、そのためには医療機関が必要との思いで比嘉正子は都島病院を設立します。病院、医師、保育園、保育士の連携を目的に病院と保育所が隣接し、保育と看護の結合、地域福祉と医療とを結びつける経営はまさに先進的な試みだったと思います。ただ、0歳児保育を行うのであれば保育所内に「0歳児が9名入園すれば1名の看護師」といった行政指導の在り方と法人の経営形態がそぐわず、また時代の変化の中で病院経営も難しくなり、病院は廃業、賃貸事業に変更(現在、遠藤クリニック)することになりました。

その後、法人における看護は、

この冊子は、以上のような法人の歴史や変遷の中で、「安全・安心・親切・丁寧」を目指し、私たちが培ってきた経験を活かし、子どもの成長、発達において各時期における特性や様々な事象を網羅し、育ちや年齢に応じて今何をすべきか、早期発見、適切な養育・養護とは何かを、試行錯誤しながら分かりやすくまとめ作り上げてくれた大切な一冊です。

育児の助言はともすればお医者さん主導の「育児書」になりがちなのですが、この冊子は現場の看護師の視点から、子どもの立場、保護者の立場、保育士の目線と重ね合わせ、法人全職員の日々の保育、実践に活かしていくものとなっています。またここでは0歳児から小学校に上がるまでの子どもたちを取り上げていますが、学童期、思春期の子どもたちの成長と心と体に起こりうる事象や病、保健衛生全般やその環境づくりにおいても、別途まとめ作っていきたいと考えています。(※お医者さんの育児書はどうしても医薬品、機器、乳製メーカー等との絡みが多く、その影響があるように思います)

最後にこの冊子は社会福祉法人都島友の会看護師連絡会はもとより、法人各施設の資料、写真等の提供、協力があればまとめ上げられたものだと思います。皆様、本当にご苦労様でした。感謝申し上げます。

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 ②幼児教育と養護 ~法人の87年の歴史を顧みながら~

一昨年(平成29年8月)、昭和35年から諸先輩が実践を通して始まった法人の乳児保育、その狙いや目的、保育法を、職員たちが基本的な事項から写真や図解と共に分かりやすく、保育の手引、エッセンスとしてまとめてくれた「乳児保育 すこやかな育ち」が完成しました。そして今回、私たち法人の幼児教育と養護に関するまとめを、職員たちの手で一冊のガイドブックにしてくれました。

幼児教育が世界(ヨーロッパ)に出現したのは約2世紀前のこと、日本においても幼児教育は140年ほどの歴史があります。その間、世界はもとより今日に至る日本の歴史を振り返れば、国民の教育に対する熱意、教育に携わる人々のたゆみない努力、その成果が近代日本の発展や質の高い国民の姿であり、その最も基本となったのが幼児教育であったといっても過言ではありません。特に近年、世界では幼児教育に関する研究が進み、幼児教育の成果がその後の学業のみならず、個々の人生において重要な要素を占めること、あるいは貧困や犯罪等々の社会問題とも深く関連していることが分かってきました。そのようなことから欧米はもとより、一部のアジアの国々の幼児教育の投資は、はるかに日本を追い越してきているのが現状です。もちろん日本においても、待機児童問題や女性就労の問題と同時に、幼児教育の質の向上の必要性が認識され、予算に関しても少しずつではありますが増えてきているように思います。

しかし、いまだ日本の法律は、幼稚園と幼保連携型認定こども園は学校教育法の学校であり、保育園は児童福祉法上の福祉施設、あくまで“保育を必要とする子ども”を預かる施設ということになっています。ただそのような法的な建て前とは別に、現況の日本の社会においては、子どもの半分は幼稚園、半分は保育園に入園しているのが実情であり、幼保統合が早々にできないとしても、幼児教育は、幼稚園、保育園の枠を超え、地域によってはある程度の共通化してよい時代に入ってきているのだと思います。

さて、私たち法人は、昭和6年(1931年)、地域の子どもたちの養護と教育を受け持つ都島幼稚園として出発しますが、以降、不幸な大戦や敗戦、衣食住の欠乏した焼け跡を経たのち、戦後昭和25年、子どもを守る児童福祉法のもと、〈保育を必要とする児童を預る施設〉と規定される保育所として再出発します。ただ当時から法人では幼児教育の重要性や必要性を訴え、実質、戦前の都島幼稚園から続く幼稚園同様の幼児教育を養護と共に今日まで行ってきました(その意味で、甚だ手前味噌にはなりますが、戦後70年、国や行政もようやくここまで来たか、の思いがあります)。

そうした法人の歴史を踏まえ、さらに今日、国や行政が幼児教育の質の向上や無償化へと舵を切る中、私たちはより一層質の高い幼児教育の実践を行うため、現在、職員のスキルアップや専門性の強化を目的とした研修制度の拡大改善に取り組んでいます。また同時に『比嘉正子地域貢献事業研修センター』において、「都島友の会 保育士等キャリアアップ研修」を開催、法人職員のみならず、外部からも多くの保育士が受講され、リーダー的役割を担う保育士・保育教諭の育成に力を注いでいます。

2020年、わが国では、戦後、最大規模の教育改革が始まります。大学入学共通テストが実施され、小学校では新指導学習要領が全面実施されます。中でも教育改革の優先課題として、生涯にわたる生きる力や人間形成の基礎を培う幼児期への教育が重要視されています。

私たち法人ではこれまでから遊びを通して「資質・能力」を育てる幼児教育を行ってきました。子どもたちは遊びの中で様々な発見をし、自分がやりたいことをうまく楽しくやるためにはどうすればいいか考え、工夫し、自在に想像力を発揮します。友達と意見がぶつかることもありますが、その中で相手を思いやることや協力することを学んでいきます。これはまさに新指導学習要領にある「主体的・対話的で深い学び」、あるいは幼児期での【非認知能力】の形成に結びつくものです。人として基本的な生活習慣や態度を育て、道徳性の芽生えを培い,学習意欲や態度の基礎となる好奇心や探求心を養い、創造性を豊かにする…。

今回職員たちが、様々な試行錯誤を重ねながらまとめてくれた「幼児教育・保育」ガイドブック。これまで私たち法人が培ってきた経験を分かりやすくまとめてくれました。全体的な計画のもと、育ちや年齢に応じて今何をすべきか、何が大切かを一目で見通せる短期と長期に分けたカリキュラム。そして、それを運営するマネジメントのノウハウ。あるいは個々の教育保育の方法や内容の点検、それらを写真と共に見やすく参照でき、誰もが客観的な共通理解をもって取り組み指導できる一冊となりました。法人にとってかけがえのない宝物が、また一つ生まれました。

都島友の会の保育、教育、養護、看護
 ①乳児保育の歩み

戦後の日本は、昭和30年代に入ると、高度経済成長によって労働力需要が拡大し、それに伴って女性の社会進出も進み、働くお母さんたちも急速に増加しだします。しかし子どもを0歳児から保育所に預けることは社会情勢としてまだまだ理解が薄く、乳児保育を正式に手掛けるところはありませんでした。そのため妹弟が生まれても入所するところがない、せっかく仕事を続けたいのに続けることがむつかしくなるなど、働く女性にとっては不満が募り、乳児保育の要求が保育運動として高まってきた時代でもありました。

昭和35年、都島保育所(現認定こども園都島児童センター)に、保健所に勤務する母親から、2番目の子どもを預けたいとの施設要望がありました。このような訴えを聴くと矢も楯もたまらず一肌も二肌も脱いでしまうのが初代理事長、比嘉正子です。充分な設備や乳児を預かる経験もないまま、当時法人が経営していた診療所の看護婦宿舎の二部屋を利用して、子育て経験のある保育職員(現 中津保育園園長中村清子先生、池島保育園園長西平久子先生、当法人前理事長・初代都島乳児保育センター園長 故仲田貞子先生)を、0・1・2歳児の担当に抜擢、国自体がまだ手を付けていない乳児保育制度を、補助金や援助金なしで開始します。これが法人の乳児保育の始まりとなりました。

始めた施設は設備もまだまだ不十分、あるものといえば保育士の愛情と奉仕の精神から生まれる旺盛なエネルギー、そして志をもった行動力でした。食事は本園(現在の認定こども園都島児童センター)から毎日運び、時間の取れない職員はしばしば食事をインスタントラーメンで済ませ(しかしこの卵入りのインスタントラーメンは美味しかった!と今でも旧職員たちの懐かしい語り草になっています)、寸暇を惜しむ忙しい日々が続きました。

オムツはお母さんたちが毎日家から持参、時に雨が降るとまだ乾いていないオムツを持ってこられたりもしましたが、職員たちは苦情ひとつ言わず、黙々と子どもたちを引き受け、冬ともなれば、ねんねこと抱っこバンドの山で保育室一室の半分が荷物預かり所になってしまう状態でした。

乳児保育を本園から離れた場所を選んだのは、本園にそのスペースがなかったこともありましたが、看護婦宿舎の隣は都島診療所であり、子どもに熱が出たり、感染症や事故等々、保育中の異変に備えて、との理由でした(現在の病児保育の先取り)。また離れた場所での保育は現在でいう“分園”の先取りともなりました。

当時、乳児室の敷地は広々とした野原で、小さい子どもたちが歩いても走っても転んでも、それはそれで楽しく、広い敷地の中に四季折々の草花や虫たち、ウサギを野放しにしたり、冬は雪遊びで遊んだりと恵まれた自然環境で子どもたちは育っていきました。

やがて5年がたち、乳児保育の経験やノウハウも確立しだしたころ、野原だった敷地に、法人は晴れて都島乳児保育センターを開園します。1階が保育室、階上の2階から4階までを賃貸住宅(あやなす荘)とした構造の建造物でした。厚生省は当時0歳児保育とは言わず、『実験的開拓事業』として認可、昭和41年6月のことです。

開園当初は、0・1・2歳児併せて60名の定員で出発しましたが、6月7月と申し込みが殺到、8月には定員を60名から90名に変更していきました(今の年度途中入所)。

当乳児保育センターは様々な新しい取り組みがなされました。部屋は保育所というより小児病棟といった色合い。部屋(クラス)に一人ひとりのベッドが整然と並んでいたからです。ベッドを入れたのは、おむつ交換の際、ベッドの高さで作業が出来ることで、保育士の負担を減らし、腰痛の防止を図ったのです。書類についても一人ひとりの子どもたちの記録を様々な視点から幾重にも記録(やがてそれは一つ一つ整理し簡潔化していくのですが)、特に朝の受け入れの検診表はその日始まる保育の原点になるものでありました。またおしめや昼寝布団をリースにして保護者の労力を軽減する取り組み、離乳食を前期・中期・後期と三段階に分け(現在の園での離乳食開始は中期食から)、アレルギー食などに対応する栄養士の管理など、発達段階や個人差に応じたきめ細やかな食育、看護師の保育参加など専門性の導入といった乳児保育の先験的な基礎を確立させていくことになります。

当時このような乳児専門の完備された保育所はなく、開園すると全国各地から見学者が絶え間なく、園長、主任はその対応に大わらわだったということです。また当時、「都島乳児保育センターに入るのは大学に入るより難しい」といった笑い話さえありました。

昭和40年代に入ると働く女性はますます増加、子どもを預かってほしいとの声がさらに広がり、国も“保育所を郵便ポストの数ほど”との保育10か年計画を策定、当然、乳児保育の要望も高まっていきます。大阪市からも「法人の病院(診療所)を休業するのであれば、そこを乳児専門の施設に改造し設置してほしい」との要望が出ます。そこで旧都島病院の2階に保育室をつくり、昭和48年5月に都島第二乳児保育センターを開園することになりました。法人2つ目の乳児専門保育所ということになります。しかし、都島区内の保育ニーズは減少せず、都島東保育園、都島友渕保育園と新たに2園の保育所を開設します。

やがて時代は移り変わり、昭和の後半を迎えると今度は全国的に出生率が低下、平成元年には出生率が1.57となり、『1.57ショック』と呼ばれ、日本の将来の人口減少が危惧されるようになります。平成5年にはついに出生率は1.47と低下、今日の少子高齢化社会の端緒がこうして始まります。こうした流れの中、平成3年には大阪市の都市再開発プロジェクトに合わせて都島桜宮保育園を新設しますが、都島地域の保育児童数の減少に伴って、都島乳児保育センターと都島第二乳児保育センターの定員数削減や統合など、時代に即した保育形態や保育のあり方を含めてどのようにするべきか、職員も含め何度も何度も話し合い、さまざまな検討がもたれました。こうして出来上がったのが現在の体制、都島乳児保育センターは0・1歳児、都島第二乳児保育センターは1歳児と2歳児、そして0歳児から5歳児を包括する認定こども園都島児童センターへと連なるトライアングル、3園連携体制ということになります。この形態が出来たことで、同年齢同士、生活や遊びを一緒にすることで保育内容が以前にもまして充実し、さらなる保育の質の向上が見られました。

現在、都島乳児保育センターは年度途中の待機児童の受け入れを多く行っています。仕事復帰を考えながら、4月の時点でまだ6か月に満たない子どもやこれから生まれてくる子どもをお腹にもつお母さんたちにとって、途中入所児を受け入れることは重要な社会的な役割を担っていると考えているからです。毎年20名ほどの年度途中での受け入れを行える園は法人内でも他にはありません。

都島第二乳児保育センターは、地域の在宅家庭の親子に向けて積極的に支援を行っています。園の開放はもとより、一時預かり事業を行い、就労、傷病、出産、介護、リフレッシュ等々、一時的に家庭保育が困難になった子どもたちを受け入れています。さらに地域子育て支援拠点事業では地域の方々にスペースを開放し、遊びや憩いの提供と共に相談事業も行い、在宅における子育てを支援しています。

時代の流れの中で、子どもたちや保護者にとって利用しやすい施設になるのはどうあればよいかを常に模索しながら現在の両園の姿になりました。そしてこのたび平成31年には、将来を見据え、都島乳児保育センター、都島第二乳児保育センターをリフォーム、リノベーションし、新たな姿で生まれ変わることになります。

日本で最初に乳児保育を手掛けた都島友の会。私たちは乳児保育のエキスパートである両園のみならず、これらの乳児保育の経験と蓄積されたノウハウを生かし、都島区にある都島児童センター、都島東保育園、友渕児童センター、都島桜宮保育園、城東区にある成育児童センター、さらに沖縄の渡保育園と松島保育園、すべての園が、法人の保育理念・基本方針・保育目標をもとに、保護者の皆様に安心して預けていただけるよう、皆さまと手を携え、私たち法人の一貫した教育・保育で、子どもたちが元気に明るい未来に巣立っていけるよう、温かく育んでいきたいと考えています。