私たち法人はこれまでの長い歴史の中で、多くの諸先輩が子どもたちのため、より質の高い保育、より快適な環境の提供を目指し、様々に工夫を重ね、研鑽してきた優れた保育法や幼児教育等のメソッドがあります。そのノウハウを分かりやすく誰にでもわかるようにまとめていこうと、ここ数年、職員たちがチームを組み、乳児保育、幼児教育、養護、そして看護と、それぞれ一冊のガイドブックにまとめようと奮闘してきました。

その職員たちの奮闘の賜物である出来上がったそれぞれのガイドブックの冒頭に、私がプロローグとして、乳児保育、幼児教育、養護、そして看護、それぞれの歴史、歩みを拙いながら簡単に振り返った文章を記しました。私たちの法人を少しでも知っていただくためにも、ここ数回にわたり、その文章を掲載したいと思います。

都島友の会の保育、教育、養護、看護
 ①乳児保育の歩み

戦後の日本は、昭和30年代に入ると、高度経済成長によって労働力需要が拡大し、それに伴って女性の社会進出も進み、働くお母さんたちも急速に増加しだします。しかし子どもを0歳児から保育所に預けることは社会情勢としてまだまだ理解が薄く、乳児保育を正式に手掛けるところはありませんでした。そのため妹弟が生まれても入所するところがない、せっかく仕事を続けたいのに続けることがむつかしくなるなど、働く女性にとっては不満が募り、乳児保育の要求が保育運動として高まってきた時代でもありました。

昭和35年、都島保育所(現認定こども園都島児童センター)に、保健所に勤務する母親から、2番目の子どもを預けたいとの施設要望がありました。このような訴えを聴くと矢も楯もたまらず一肌も二肌も脱いでしまうのが初代理事長、比嘉正子です。充分な設備や乳児を預かる経験もないまま、当時法人が経営していた診療所の看護婦宿舎の二部屋を利用して、子育て経験のある保育職員(現 中津保育園園長中村清子先生、池島保育園園長西平久子先生、当法人前理事長・初代都島乳児保育センター園長 故仲田貞子先生)を、0・1・2歳児の担当に抜擢、国自体がまだ手を付けていない乳児保育制度を、補助金や援助金なしで開始します。これが法人の乳児保育の始まりとなりました。

始めた施設は設備もまだまだ不十分、あるものといえば保育士の愛情と奉仕の精神から生まれる旺盛なエネルギー、そして志をもった行動力でした。食事は本園(現在の認定こども園都島児童センター)から毎日運び、時間の取れない職員はしばしば食事をインスタントラーメンで済ませ(しかしこの卵入りのインスタントラーメンは美味しかった!と今でも旧職員たちの懐かしい語り草になっています)、寸暇を惜しむ忙しい日々が続きました。

オムツはお母さんたちが毎日家から持参、時に雨が降るとまだ乾いていないオムツを持ってこられたりもしましたが、職員たちは苦情ひとつ言わず、黙々と子どもたちを引き受け、冬ともなれば、ねんねこと抱っこバンドの山で保育室一室の半分が荷物預かり所になってしまう状態でした。

乳児保育を本園から離れた場所を選んだのは、本園にそのスペースがなかったこともありましたが、看護婦宿舎の隣は都島診療所であり、子どもに熱が出たり、感染症や事故等々、保育中の異変に備えて、との理由でした(現在の病児保育の先取り)。また離れた場所での保育は現在でいう“分園”の先取りともなりました。

当時、乳児室の敷地は広々とした野原で、小さい子どもたちが歩いても走っても転んでも、それはそれで楽しく、広い敷地の中に四季折々の草花や虫たち、ウサギを野放しにしたり、冬は雪遊びで遊んだりと恵まれた自然環境で子どもたちは育っていきました。

やがて5年がたち、乳児保育の経験やノウハウも確立しだしたころ、野原だった敷地に、法人は晴れて都島乳児保育センターを開園します。1階が保育室、階上の2階から4階までを賃貸住宅(あやなす荘)とした構造の建造物でした。厚生省は当時0歳児保育とは言わず、『実験的開拓事業』として認可、昭和41年6月のことです。

開園当初は、0・1・2歳児併せて60名の定員で出発しましたが、6月7月と申し込みが殺到、8月には定員を60名から90名に変更していきました(今の年度途中入所)。

当乳児保育センターは様々な新しい取り組みがなされました。部屋は保育所というより小児病棟といった色合い。部屋(クラス)に一人ひとりのベッドが整然と並んでいたからです。ベッドを入れたのは、おむつ交換の際、ベッドの高さで作業が出来ることで、保育士の負担を減らし、腰痛の防止を図ったのです。書類についても一人ひとりの子どもたちの記録を様々な視点から幾重にも記録(やがてそれは一つ一つ整理し簡潔化していくのですが)、特に朝の受け入れの検診表はその日始まる保育の原点になるものでありました。またおしめや昼寝布団をリースにして保護者の労力を軽減する取り組み、離乳食を前期・中期・後期と三段階に分け(現在の園での離乳食開始は中期食から)、アレルギー食などに対応する栄養士の管理など、発達段階や個人差に応じたきめ細やかな食育、看護師の保育参加など専門性の導入といった乳児保育の先験的な基礎を確立させていくことになります。

当時このような乳児専門の完備された保育所はなく、開園すると全国各地から見学者が絶え間なく、園長、主任はその対応に大わらわだったということです。また当時、「都島乳児保育センターに入るのは大学に入るより難しい」といった笑い話さえありました。

昭和40年代に入ると働く女性はますます増加、子どもを預かってほしいとの声がさらに広がり、国も“保育所を郵便ポストの数ほど”との保育10か年計画を策定、当然、乳児保育の要望も高まっていきます。大阪市からも「法人の病院(診療所)を休業するのであれば、そこを乳児専門の施設に改造し設置してほしい」との要望が出ます。そこで旧都島病院の2階に保育室をつくり、昭和48年5月に都島第二乳児保育センターを開園することになりました。法人2つ目の乳児専門保育所ということになります。しかし、都島区内の保育ニーズは減少せず、都島東保育園、都島友渕保育園と新たに2園の保育所を開設します。

やがて時代は移り変わり、昭和の後半を迎えると今度は全国的に出生率が低下、平成元年には出生率が1.57となり、『1.57ショック』と呼ばれ、日本の将来の人口減少が危惧されるようになります。平成5年にはついに出生率は1.47と低下、今日の少子高齢化社会の端緒がこうして始まります。こうした流れの中、平成3年には大阪市の都市再開発プロジェクトに合わせて都島桜宮保育園を新設しますが、都島地域の保育児童数の減少に伴って、都島乳児保育センターと都島第二乳児保育センターの定員数削減や統合など、時代に即した保育形態や保育のあり方を含めてどのようにするべきか、職員も含め何度も何度も話し合い、さまざまな検討がもたれました。こうして出来上がったのが現在の体制、都島乳児保育センターは0・1歳児、都島第二乳児保育センターは1歳児と2歳児、そして0歳児から5歳児を包括する認定こども園都島児童センターへと連なるトライアングル、3園連携体制ということになります。この形態が出来たことで、同年齢同士、生活や遊びを一緒にすることで保育内容が以前にもまして充実し、さらなる保育の質の向上が見られました。

現在、都島乳児保育センターは年度途中の待機児童の受け入れを多く行っています。仕事復帰を考えながら、4月の時点でまだ6か月に満たない子どもやこれから生まれてくる子どもをお腹にもつお母さんたちにとって、途中入所児を受け入れることは重要な社会的な役割を担っていると考えているからです。毎年20名ほどの年度途中での受け入れを行える園は法人内でも他にはありません。

都島第二乳児保育センターは、地域の在宅家庭の親子に向けて積極的に支援を行っています。園の開放はもとより、一時預かり事業を行い、就労、傷病、出産、介護、リフレッシュ等々、一時的に家庭保育が困難になった子どもたちを受け入れています。さらに地域子育て支援拠点事業では地域の方々にスペースを開放し、遊びや憩いの提供と共に相談事業も行い、在宅における子育てを支援しています。

時代の流れの中で、子どもたちや保護者にとって利用しやすい施設になるのはどうあればよいかを常に模索しながら現在の両園の姿になりました。そしてこのたび平成31年には、将来を見据え、都島乳児保育センター、都島第二乳児保育センターをリフォーム、リノベーションし、新たな姿で生まれ変わることになります。

日本で最初に乳児保育を手掛けた都島友の会。私たちは乳児保育のエキスパートである両園のみならず、これらの乳児保育の経験と蓄積されたノウハウを生かし、都島区にある都島児童センター、都島東保育園、友渕児童センター、都島桜宮保育園、城東区にある成育児童センター、さらに沖縄の渡保育園と松島保育園、すべての園が、法人の保育理念・基本方針・保育目標をもとに、保護者の皆様に安心して預けていただけるよう、皆さまと手を携え、私たち法人の一貫した教育・保育で、子どもたちが元気に明るい未来に巣立っていけるよう、温かく育んでいきたいと考えています。