都島友の会 創設者 比嘉正子ーその生涯を言行録とその背景から探るー

「第一部」 その人の人生は出会う恩師によってきまる

戦時の比嘉正子

1939年 日の丸弁当持参になる。
1941年 戦時色が濃くなり、
集団退避訓練が保育内容に取り入れられた。
1943年 戦時保育所に切り替え、出征軍人の子、
戦争未亡人の子、勤労婦人の子を優先入園させる。
1945年3月 最後の修了式を行い、都島幼稚園閉鎖。
(大阪府知事より戦況逼迫のため、閉鎖命令を受ける)
比嘉正子園長先生と園児たち

食料品が統制され、物みな配給制度になり、配給量も少なくなる一方だったので、栄養を維持することができなくなった。たくましい父兄は、農村、漁村へ買い出しに行き、金のある父兄は法律に違反しても、闇屋から仕入れるようであったが、配給だけで暮らしている人たちは栄養失調になった。子供達の弁当はおかずなしの弁当箱の中に、梅干し一個を入れてきたが、その日の丸弁当もだんだん量が減って、米の部分が薄っぺらになっていった。・・・「先生お腹ぺこぺこだよ」と訴えられても「欲しがりません勝つまでは」と、たしなめる保母の心はむなしかった。

工場という工場が軍需工場に転用させられ、保育所の隣にあった工場も、海軍の軍需工場となった。戦局の進展とともに・・・私の保育園の建物に目をつけ買い取りの話が持ち上がった。・・・当時は何事も「軍」にさからうことのできぬ時代であった。しかし私には子どもを預かっているという責任感がある。子どもの母親の大部分は軍需工場で働いたり、出征兵士の妻として、幼い子どもを抱えて内職している人もいる・・・もし保育園がなくなり、子どもが家庭へ戻っても、誰が面倒をみるのか―と思うと、軍の圧力で買い取るという話しぶりには、どうしても納得がいかなかった。・・・「出征兵士の方々が安心してご奉公できるのも、お母さん方が安心して軍需工場で働けるのも、保育所があるからではありませんか。私は保育所を閉鎖するわけにはいきません。・・・軍需工場が戦力であるなら、保育所もまた戦力であります」と夢中になって申し上げました。



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