大阪市立北市民館について  大阪市に初めて大阪市立の北市民館が創設された直接の動機は、大正7年(1918)富山県で勃発したコメ騒動が、大阪にも激しい騒動を引き起こしたことです。
 米騒動の原因としては、1.物価の高騰、特に米価のすさまじい高騰、2.政府の失政に対する不満、3.成金・富豪の米の買い占めに対する反感が背景にありました。
 大正後期の日本の不況は、貧困問題を社会問題として一層深刻に浮かび上がらせ、旧来の慈善的救済事業では対処せないことが明らかとなり、社会連帯的社会事業理念へと質的転換が希求されました。こうした危機的な社会状況の中で、大阪ではコメ騒動後、防貧施策に資すべく、大阪市救援事業後援会を組織し、広く寄付金を募集しました。・・それを資金として、児童相談所など多数の社会事業施設が設立されました。全国に先駆けて日本で初めての公立保育所ができたのが大正8年(1919)のこの時期です。大阪市の救済課が大正9年には社会部に昇格し、公的社会事業が各地に増加しました。その一つとして、公営のセツルメント※としての市立市民館が、当時貧困層の集まっていた天神橋6丁目に建設されました。(後に北市民館となる)
天神橋6丁目から北の長柄地区は、周囲の紡績工場地帯の流入に伴い、急激な都市化とスラム化の拡大が進んでいました。この地域には失業・貧困・犯罪・疫病・不衛生など、数々の社会・生活問題が深刻化していたのです。その初代館長として志賀志那人氏が28歳の若さで選ばれ就任しました。社会事業の抱負に燃える館長は、経済的事業、強化事業、保険事業、個別指導、児童保護事業など、およそセツルメントとして行う必要のある事業をすべて行いました。

「比嘉正子の生涯史」 大阪福祉行政と都島友の会の狭間に生きた故比嘉先生 川原佐公(P74)