比嘉正子の青空幼稚園に影響を及ぼした
橋詰せみ郎の「家なき幼稚園」と「露天保育」

 志賀志那人は、保育組合を始める前、最初に露天保育所を開所しています。この露天保育所は、大正11年の春、橋詰せみ郎が大阪府池田市室町に開いた「家なき幼稚園」の自由教育運動に多大の影響を受けています。(中略)
 橋詰良一(せみ郎)は、明治4年(1891)10月19日兵庫県尼崎生まれ、昭和9年(1934)で亡くなっていますが、京阪地方において、教育家・社会啓蒙家として活躍した人です。
橋詰せみ郎が家なき幼稚園を開くきっかけは、大正10年の夏、勤めていた毎日新聞社から命じられて、ヨーロッパの教育をつぶさに研究する機会があったこと。又、帰国後9人のわが子の生活実態をみつめる中から発想したことです。
 学齢前の幼い子どもが、大人と1日中一緒にいることは、子どもに犠牲を強いる場合があまりにも多く、子どもの成長にとって好ましいことではない。学齢前の子どもたちを家から引き離し、子ども同士で生活させる場所(幼稚園)が必要だと考えるようになりました。
 しかし従来の形式の幼稚園では、子どもを家族制度から一応隔てることができても、その制度を入れる器となっている家屋から子どもを開放することはできないであろう。そこで家族制度と家屋という二つの「家」から完全に子どもを自由にするため、園舎を持たない幼稚園の構想に取り組んだのです。
 家なき幼稚園では、猪名川の木陰・大光寺の森・城山の野原という自然の中で、自然物を保育用具として、伸び伸びと楽しませ、環境により教育を実践しました。
 こうした自然の中の自由な保育の考えを取り入れ、北市民館保育組合を出発した3ヶ月後、志賀は、郊外保育を開始しています。
 橋詰の家なき幼稚園は、大阪各地に広められ、12年間続いたのですがせみ郎の逝去と共に解散を余儀なくされてしまいました。
 比嘉正子は昭和3年に北市民館を退職していますが、昭和6年(1931)志賀志那人から呼び出しを受け、都島に幼稚園を作りなさい、君ならできると白羽の矢を立てられました。その時の言葉が「例え資金がなくとも、公園の木陰・太陽の下、これみな立派な園舎である。この葉っぱや石ころ・虫・草花、みんな自然が与える恩物(教材)である」とい言う自然保育の持論でした。この発想が比嘉正子の児童福祉への行動の支えとなり、都島に初めての青空幼稚園の創立につながるのです。

「比嘉正子の生涯史」大阪福祉行政と都島友の会の狭間に生きた故比嘉先生 川原佐公 著