法人の歴史⑩
お帰りなさい、〈もうひとつの我が家〉に。
ゆんたく都島 Vol.31(2019.9)

『福祉はすべての人が健康で文化的かつ快適な生活が守られ、豊かな人間生活が実現できることを内包するものでなければならない』 ― 法人の創設者、比嘉正子の言葉です。

1931年(昭和6年)。日本が大陸へと目を向け進出して行った時代。比嘉正子は養護と教育を併せ持った都島幼稚園を設立、日本の子どもの”育ち“の環境整備に力を注いでいきます。(当時の幼稚園教育の資料は、法人本部資料室にあります)

1945年(昭和20年)終戦。焼け跡に空腹でさまよう親子があふれる中、何をするにも資材乏しき時代にあって、「もう一度子どもたちの園を作ってください!!」との母親たちの熱い願いに支えられ、苦心に苦心を重ね、ようやく集めた貧しい資材で出来たのが都島児童館。戦後の法人の再起となる園舎でした。粗末な建物、それでも母親や子どもたちは待っていてくれました。卒園児たちが石を拾ったり、運動場の整備を手伝ってくれたり…。職員、保護者、地域の方々の力を結実したつつましい、しかし希望に満ちた園舎でした。その後法人は長時間、短時間を併設した保育部・幼児部の創設、全国に先駆けた乳児保育や障がい児保育、学童保育へと活動を広げていきます。

法人では、”人の誕生から最後まで“人の生涯を包括する福祉を行いたいとの思いがあり、特に高齢者福祉を実践したいと思っておりましたが、なかなか夢は果たせずにいました。

1991年(平成3年) 都島桜宮保育園開園の際、〈子どもから高齢者まで〉を包括する福祉ゾーン(街づくり)を計画しましたが、諸事情から老人施設を手掛けることを諦めざるをえませんでした。

1997年(平成9年) 友渕地域、北部運動公園の一角で、デイサービス(通所介護)をやってみないかとのお話があり、予定地は元カネボウ(株)様から、(大阪市経由で都島友の会へ指定給付を受け)設計、補助金申請を急ぎました。当時は大阪市の指導も懇切丁寧でした。

1999年(平成11年)1月 友渕地域在宅サービスステーションひまわり竣工式。鉄筋コンクリート造、地上3階建。高齢者の保育園とのイメージを描いての出発でしたが、さまざまな人生や生活環境で過ごされ、自身の体調も年齢も異なる方々の集まり…。一人ひとりに寄り添いながらも、子どもの保育とは全く異なる課題や難しさもありました。しかし現在では25名~30名の方が健康チェック・入浴、季節感ある食事を楽しみ、レクレーションや仲間づくりを楽しまれています。

2000年(平成12年)年の初頭、都島東保育園東隣りの大阪市水道局の空き地に、高齢施設予定の公募。但し競争率が高く、4法人の激戦です。法人の保育園隣接地であること、デイサービスの経験もあること、法人の長年の地域福祉や地域貢献等々、プレゼンテーションに全精力をかけました。同年12月、特別養護老人ホームの設置の決定を受け、夜に昼に設計の先生方と打ち合わせ、「私が入居するならこんなのが…、あんなのが…」と議論を重ね、また予算範囲内で足を出さないよう、借入が少なくて済む方法を考えるなど、法人全施設の中で考えられることは全て出しきり、その結果認められた時の嬉しさはたまりません。設計はプレゼンテーションを受ける時に充分なるものができており、業者入札、近隣説明、とんとん拍子に進めることができました。

         

2001年(平成13年) 鉄筋コンクリート造、地上6階建築工事着工、9月、工事半ばで入居願書受付。80名定員に268名が申込み。

2002年(平成14年)2月、工事終了。入居準備、事務処理、職員研修、建物の使い方(安全管理)。3月、竣工式。見学披露、当日参加者861名。4月、特別養護老人ホームひまわりの郷の門出となりました。

こうしてようやく、法人の乳児から高齢者まで、人の一生を包括する福祉への想いを実現することができました。

〈ひまわりの郷〉のコンセプトは、『ようこそ、もうひとつの我が家へ』。入居者が我が家におられるような気持ちでお暮しになられるように…。そのため建物の各階も1丁目、2丁目、3丁目、4丁目、5丁目と名付け、各室は〇の番地と、ご近所のようなしつらえに…。今までの住み慣れたお家と同じ訳にはいきませんが、病院とは違った居室づくり、環境づくりに努力しました。

法人の創設、都島幼稚園の第一期生も今や95歳近くになられます。ご自分が幼稚園に登園し、今度はお子たち、そして孫たちが登園。やがてデイサービスを利用され、〈ひまわりの郷〉に入居された、お顔馴染みな方もおられます。本当に、「ようこそお帰り頂きました!!」。

現在では最長老104歳の方を筆頭に、ボランティアの皆様や家族会のお力にも支えられ、カラオケ、お絵かき、習字、詩吟、季節の行事やお誕生会等、イベントやコンサートと盛りだくさん。中でも法人の保育園児との交流は皆さま待ち遠しいようで、毎週どこかの園児が訪問して来ると、子どもたちの可愛いしぐさ、握りしめる手、ハグしてくる温もりに心ときめかし、頬がゆるみ、日々への活力源の一つになっておられる様が伝わります。

 

〈ひまわりの郷〉も開設16年が経過しますと、補修、改装が必要になります。昨年までに空調設備121台入れ替え、浴室の個浴への整備変更、各階、廊下、居室のクロス張替や防水、熱中症や感染症等の予防設備も整えました。

今年4月には1階の集会室を大幅にリニューアルし、誰もが気軽に利用できるカフェテリアひまわりを開設しました。オープンテラスでコーヒーや軽食を楽しみながら、入居者の方をはじめ、ご家族、地域の人たちなど、様々な人々が語らい、憩うことの出来る開かれた場になるようにとの想いでつくらせていただきました。カフェテリアの開設と共に、今年度の事業としては、(看取り介護の研修と実施)、(介護分野技能実習生の受け入れ)、(防災拠点としての施設づくり)を目標としております。

特に看取り介護の実施は、ひまわりの郷での最期を迎えたいと希望される入居者様、ご家族様に寄り添えるよう、昨年度から、委員会、研修、話し合いなど準備を進め、今年5月現在、お二人の方を看取ることができました。

 

今後は法人の高齢者施設デイサービスひまわりと特別養護老人ホームひまわりの郷での職員間の交流、職員間の一体感を高め、地域高齢者の包括的なケアの推進を図ってまいります。また介護職員の人材不足の改善として外国人技能実習生制度や外国人介護士の採用と共に、職員が仕事に喜びや生きがいを感じ、遣り甲斐をもって勤めることの出来る職場環境づくりを進めることで、お一人おひとりがその生涯の最期まで安らかにお過ごしになられる介護を目指していきたいと考えております。ようこそ、〈もうひとつの我が家〉へ!お帰りなさい、〈もうひとつの我が家〉に!


法人の歴史⑨
―沖縄から沖縄へ― 出会いに導かれた比嘉正子の旅路
渡保育園と松島保育園
ゆんたく都島 Vol.30(2019.3)

沖縄県那覇市首里金城町(首里城南下)。国の文化財に指定されている金城町石畳のすぐ近くに渡保育園があります。そこは法人の初代理事長比嘉正子の生誕の地でもあります。

首里城は、琉球国王の居城として那覇市内を一望できる丘陵地にあり、その周辺には現在も多くの文化財が残っています。2000年12月には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録され、世界各地から大勢の観光客が訪れています。

比嘉正子(旧姓 渡嘉敷周子)は1905年(明治38年)3月5日、琉球王家御用達の造り酒屋の家系に生まれました。17歳で教会の洗礼を受け、1922年(大正11年)、単身、沖縄から大阪バプテスト女子神学校(現在ミード社会館)に入学。そこで、校長 ミス・ミードと出会います。ミス・ミードは、その生涯を日本の女子教育とキリスト教の伝道に捧げた方です。後年、比嘉正子は様々な人との出会いがその人の人間形成に大きな関わりを持つことを、『その人の人生は恩師によって決まる』と述べております。比嘉にとっての恩師の一人がミス・ミード女史であり、彼女の教えであったキリスト教的博愛精神とミード女史が校長を務めたバプテスト女子神学校でのアメリカの民主主義が、彼女の人生に終生、大きな影響を与えることになります。

一方、関西学院の教授であり、当時、週2回のバイブル社会学の講義に来られた川上丈太郎先生との出会いがありました。川上先生は彼女に、”社会的な不平等と貧困がある限り人間は救われない“と教えます。キリスト教的な精神主義で人類が救われると美しい夢を抱いていた彼女は、社会改革や社会主義にも興味を持ち、社会変革への志を抱くようになったのです。

1924年(大正13年)、比嘉はその志を胸に、大阪市立北市民館(現在 大阪市立住まい情報センター)の保母として働くことになります。そこで館長 志賀志那人先生との運命的な出会いが起こります。志賀先生からは、”今まさに目の前に起きていること、それに対しどう対応していくのか“、机上の理論でなく、現実に飛び込み、そこで行動し、実践していくこと、今日でいう社会福祉の実践、その大切さと共にその醍醐味を味わうことになるのです。

保育を通して、子どもたちが育つその背景にある地域や環境の問題、学びと現実の落差、自分自身の経験や体験のなさ|。さてどうする。血の通った交流、自分が飛び込むのか、飛び込んでくれるのか…。神学校で授かった『常に貧しきもの、弱きものの立場に立って考えなさい』との教えを現実の中で実践し、やり通していくには、20歳の女の子には難しい日々が続きます。しかし彼女はがむしゃらに奮闘します。ずっと後になって、北市民館で体験したさまざまな苦労、失敗談を、さも楽しそうに話してくれました。

やがて昭和に入り、同郷の男性と結婚。よき伴侶を得、穏やかな家庭で育児に明け暮れていた時、志賀先生からの呼び出しがあり、都島で保育所をつくり、子どもたちに手を差し伸べてはどうかとの示唆があります(詳細な経過は法人の50周年、60周年、70周年、80周年記念誌に掲載)。

人との出会いは不思議なものです。宗教に生きようとの思いが社会福祉やセツルメント、保育へとつながり、よき伴侶を得たのち家庭での人生が始まった矢先、お金も何もない中、都島公園の青空保育から始めた彼女の保育事業は、今度は都島の大地主だった山野平一様との出会いにより、土地を貸与され、園舎を建てていただき、ついには彼女の理想とする教育的要素と託児所の養護的要素の両方を兼ねた”子どもの館“『都島幼稚園』の誕生となるのです。比嘉、26歳の時、1931年(昭和6年)のことでした。

その後、彼女の幼稚園は志を同じくする多くの方の助けもあり、順調に発展していくのですが、やがて日本は戦争の時代に突入、昭和20年8月15日に敗戦を迎えます。幼稚園は焼かれ、3人いた我が子二人まで亡くし、何もかも失った彼女は、もう仕事はすまいと虚脱と懺悔の日々を送ります。

ところが戦後の日本の社会状況は、比嘉正子の逃避を許しませんでした。貧しく、どこにも行き場を失った子どもたちや女性、母親の姿を前に、「今、この子たちに手を差し伸べねばどうする!」と彼女は再度、都島児童館を立ち上げます。国や行政が動き出す前のことです。

彼女の情熱は、社会福祉事業家として、消費者運動や婦人運動家のリーダーとして、戦前、戦中、戦後、波乱万丈に駆け抜け、ついに故郷沖縄へと向かいます。(いかなる難題にも無邪気に勇敢に立ち向かう比嘉正子の人間形成には、生まれ育った首里の美しい文化や温暖でおおらかな風土が培ったのではないでしょうか。)

沖縄県那覇市首里金城町は、彼女を育てた父や母、共に暮らした兄、姉への思いの詰まった望郷の地です。昭和49年(1974年)、比嘉正子は沖縄の本土復帰記念として、沖縄に念願の保育園を創設します。旧姓渡嘉敷の「渡」をとり、「渡保育園」と名付けました。そして昭和57年(1982年)、法人創立50周年記念事業として、那覇市松島に、2園目の保育園「松島保育園」を設立します。

こうして比嘉正子の社会福祉への想いは、故郷の地にもしっかりと受け継がれることとなりました。運営は親友、伊禮政義、容子夫妻に委ねられ、夫妻の手腕によって比嘉の理想が形になって発揮されていくのです。

渡保育園は沖縄の美しい王宮文化の発祥の地。一方、松島保育園は新しい街、目の前に松島中学校、市立病院、沖縄で唯一のモノレールが通り、交通アクセスも大変良いところです。近くには那覇市で一番大きな森「末吉公園」があり、豊かな自然に囲まれて森林浴もできる子どもたちの散策場所になっています。

現在、渡、松島両園は、伊禮政義、容子夫妻から、伊禮良樹(現 沖縄常勤理事)、伊禮明子、東里正江園長にと引き継がれ、沖縄の風土や伝統文化、さらには沖縄のもつ先取の気風を大切に、保護者、保育士が力を合わせ、乳幼児期の育ちの重要性をしっかりと考えた保育に取り組み、これからの未来を担う子どもたちを温かい心で育んでいます。

クリスチャンとして生きようとする彼女の思いは、人との出会いに導かれ、いつしか社会福祉や保育へとつながり、彼女の蒔いた福祉の種は今日、ガジュマルの木のように成長し、認定こども園・保育園、都島区8ヶ園、城東区1ヶ園、沖縄2ヶ園、発達支援センター1ヶ園(事業10事業)、児童館(事業6ヶ所)、高齢施設2ヶ所(事業9事業)と大きく枝葉を育み、伸びています。

私ども都島友の会は常に初心に還ることを怠らず、時代の流れに沿い、我々の役割をしっかりと見つめ、次代へ繋いでいく覚悟です。今後とも皆様のご支援、ご協力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

松島保育園の子どもたちと
松島保育園の子どもたちと

法人の歴史⑧
“育て、育てあう” 恵まれた環境の中で
都島桜宮保育園の歩み
ゆんたく都島 Vol.29(2018.9)

本年4月、都島桜宮保育園は、かねてから懸案だった都島地域の待機児解消のため、増改築を行うとともに既存の建物を全面改修いたしました。完成した園舎は、法人創設者比嘉正子夫妻の想いを託した2つの三角屋根(ピラミッドパワー!!)、壁面は信楽焼の陶板の「ひまわりのレリーフ」、3階ホールには「日本の保育の始まり」と伝えられる「少子部連と子ども達」をモチーフにした緞帳など、以前の園舎の面影を残しつつ、パステル調に装いも一新、内部は天然素材やナラの無垢材をふんだんに取り入れ、子どもたちをやさしく健やかに包み込む魅力たっぷりな空間に生まれ変わりました。そして準備万端、いよいよ来春には幼保連携型認定こども園として出発します。

都島桜宮保育園は、平成3年(1991年)4月、都島区中野町5丁目 淀川貨物線跡地に開園しました。都島区、とりわけ当園の所在する一帯は昔から淀川と深い関わりがあり、川との深いつながりの中で人々の暮らしが営まれ、淀川そのものの存在が文化を育む場となっていました。

川辺の水は大変きれいで、飲料水となり、豊臣秀吉の頃はこの水を「茶の湯」として愛用されたとも伝えられ、この辺を「青湾」と名付け、今も「青湾」の碑があります。また明治20年代頃までは「水屋」という人たちが飲料水として売っていたそうです。

一方、淀川は暴れる河川でもありました。大正14年(1925年)頃までは、5~6年に1度は大雨のたびに氾濫、大雨で橋も流されることもあり「源八の渡し」なる渡し舟の舟付き場は、昭和30年代後半までありました。そのため、河川改修や築堤工事の記録が数多く残っています。川幅が狭く蛇行していた下流部を川幅500mを超える放水路(新淀川)に開削、併せて毛馬の旧淀川には洗堰が設けられ、洪水時に大阪市内に流入する水量の遮断・調節が可能になりました。同時に、船の航行ができるよう水位を調節する毛馬閘門がつくられました。

本来「きれいな水」「飲める水」だった淀川も、近代化と共に、汚染され、明治28年(1895年)に大阪市水道の水源地として「桜ノ宮水源地」を作りました。その水を貯める水がめが、淀川沿いから都島桜宮保育園、隣接する特別養護老人ホームからまつ苑の地下に埋もれています。(建築中、基礎工事で発覚)。水道70周年記念として「大阪水道発祥之地」の碑を昭和40年に建てられ、今もその碑が残っています。

現在この一帯は、当園の園舎、道を挟んで北側には大阪市立総合医療センターやグラウンド、そしてモダンで斬新なマンション群等が建ち並んでいますが、ここには日本国有鉄道(国鉄)の淀川電車区と淀川駅(貨物駅)のある広大な土地でした。ただ昭和20年の大阪大空襲を受け全焼してしまいます。

戦後、焼け野原となった跡地に大阪市電都島車庫ができ、長らく大阪市電や市バスの車庫として使用されていましたが、時代が移り、地下鉄やモータリゼーションの流れと共に廃止。平成2年(1990年)、再開発の計画が立ち上がります。

時はまさにバブルの時代。桜宮リバーシティ・ウォータータワープラザなどグレードの高いマンション群が続々と建設され、保健センター、勤労青少年ホーム、そして平成5年(1993年)、大阪市制100周年記念事業の一環として、大阪市の既存の5施設を統廃合し、大阪市の中核病院の役割を果たす大阪市立総合医療センターが開院されます。当時、この地の再開発の際、「子どもから高齢者まで」を包摂する福祉ゾーンとして、「街づくり」の相談が寄せられました。それを受けて法人は、企画、構成、設計までを準備しましたが、これまで高齢施設運営の経験がないこと、また当時の経営状況等を鑑み、児童施設の建設運営のみを引き受けることにしました。「子どもが育ち、子どもを育てあう街づくり」、その拠点としての都島桜宮保育園の誕生です。

誕生の成り立ちを原点として、街全体で ”育て育てあう“地域ぐるみの保育を目標にしました。当園が、「親育」の場、「地域共生」の場であると考えたのです。そのためには地域や保護者との繋がりを深め交流していくことを第一と考え、またその継続が大切であると考えました。27年経った今日も、歴代園長をはじめ全職員がその理念を継承し、地域の皆さんとの連携を大切に、”街全体で育て育てあう“環境作りの努力を続けてくれています。

小、中、高等学校、高齢者の皆さまとの世代間交流は、異なる年代、多様な関わりの中で、命の大切さや豊かな人間への育ちを学んでいます。地域社会に向けての活動、特に近隣の方々との交流も活発です。地域諸団体の行事には積極的に参加し、先日は、「昭和会」の皆さんが都島中学校グランドで栽培をした「じゃがいも」掘りを体験させてもらいました。 ”野菜作りの師匠“と呼ばれる近所の店主さんからは、玉ねぎ、キュウリ、ナス、スイカなど季節の野菜作りを教わり、種まきから収穫まで、生命の不思議さ、育てる楽しさを学ばせていただいています。保護者の方々との交流も特色です。親子行事「ふれあいデー」を開催し、周辺の公園でのスタンプラリー、クッキング(カレー作り)、園庭開放日には地域の親子参加(月1回)、子育て相談、諸々悩み相談も受け付けています。お父さん同士の交流を図る「パパイベント」も今年で5年目、父親目線での子育ての悩み、趣味の話題、そこから新しいつながりも生まれてきました。

職住近接の快適な都心の中、行事や給食とは一味違う楽しい食のイベントを催し、もちつき、ぜんざい、おでんパーティー、たこ焼き、焼きそば、お好み焼き、さんま焼や魚の三枚おろし、バーベキューにそうめん流し等、戸外の運動場で、食べる楽しみ、作る楽しさを味わっています。

淀川の土筆や菫、たんぽぽ、桜、ビーチバレーに天神祭、花火、秋の紅葉…、美しい環境、地域の良き隣人にも恵まれ、都島桜宮保育園の子どもたちは、乳児期の段階から、人と関わる喜び、楽しさの中で、安心、安全、ゆったりと落ち着いた雰囲気の中、心地よい生活リズムと食習慣の基礎を養っていきます。身の回りのことが少しずつ自分でできるようになる幼児期に入ると、「幼児教育・養護」が始まり、知・徳・体、三位一体となったバランスのいい教育・保育は、開園当初より続いています。運動会、発表会での発表では、子どもたちの「やる気」「チャレンジ精神」「楽しむ姿」は圧巻です。

従来の定員120名から、現在223名(分園25名、本園198名)に定員を増員しても、園の人気は高く、希望者が多いため、職員確保に苦戦しておりますが、法人全体で取り組む研修や勉強会を含め、元職員、非常勤職員の援助の中、家庭的であたたかい環境の中で、今までにも増して質の高い教育・保育を提供できるよう、私たちはさらなる努力を傾けてまいります。

「子どもも育ち、我も育つ」。当園創設以来の精神です。どうかご支援、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。

都島桜宮保育園の子どもたちと
都島桜宮保育園の子どもたちと

法人の歴史⑦
超高層の街に育てられ
幼保連携型認定こども園 友渕児童センター(旧都島友渕保育園)、
都島友渕乳児保育センターの歩み
ゆんたく都島 Vol.28(2018.3)

その昔、都島友渕1丁目には、日本を代表する紡績会社の染物工場がありました。紡績や染物といった繊維産業は、ある時代まで日本を支える屋台骨でありました

鐘淵紡績(カネボウ)の染物工場は広大な敷地を持ち、大量の従業員が働くとともに、その敷地内には、人々がそこで暮らしを営む”まち“がつくられ、周囲も賑わっていきました。

やがて戦争が起こり、終戦、そして戦後復興の後、高度成長を迎える頃には、日本の産業は鉄鋼・化学、エレクトロニクスなど重厚長大産業へと移行し、都市近郊にはニュータウンができ、工場も郊外へと移転していきます。旧来の市街地では人口流出が起こり、ご多分に漏れず都島友渕地域にあった大阪淀川工場も長浜工場に統合移転、これにより都島地域も長く停滞した時期が続きます。全国で見られた都市部におけるドーナツ化現象です。

大阪市はこうした現象に歯止めをかけ、都市居住圏を再興しようと、市街における定住施策を打ち出し、再開発に乗り出します。

1982年、カネボウ工場跡地に、民間デベロッパー(三井不動産、進和不動産、カネボウ不動産)が三鐘都市開発とタイアップして、大規模な超高層マンション街に着手しました。日本一高い116mのタワーマンションの建つベルパークシティの開発がはじまったのです。1987年頃から本格的入居が始まり、1995年には、ほぼ完成します。総合分譲戸数は、3058戸でした。

時を同じくしてUR都市機構(旧住宅公団)の「リバーサイドともぶち」36棟836戸、友渕小学校の北側には大阪市住宅供給公社友渕コーポや大阪市営住宅、友渕小学校東側には「アネックス友渕」435戸と高層マンションが建ち並びました。

計画された街並みは、元来が水資源の豊かな土地であることから、至るところに水をテーマにした演出がなされます。小川が流れ、鎮守の森、桜並木、そして四季折々の花々や豊かな緑、そしてそこにモダンなショッピングセンターやスポーツセンターが設置され、住みよい街ができました。ベルパーク開発以降も、「ローレルスクエア都島」ができ、南側にあった元日本製紙(旧十条製紙)の工場跡には「セントプレイスシティ」「ニュータウン都島」と大型集合住宅の開発が続き、この地域だけでも約7000戸を超す大型高層マンション群になっていきました

都心に近接し、地下鉄「都島」駅から5分〜10分圏内という大変便利な住宅エリアとして、人々の間にその魅力や価値がどんどん高まっていきました。2005年(平成17年)に行われた国勢調査では、友渕町1丁目の人口は18 ,164人、都島区のおよそ5人に1人を占めるまで発展していきました

さて、私ども友渕児童センター(旧都島友渕保育園)は1983年(昭和58年4月)、ベルパークシティの開発と時を同じくして開園しました。私事になりますが、初代理事長から、「小さな園だが、あなたの手で新たに保育所をつくり、運営をしてみないか」と申し渡され、私は初代園長として試行錯誤を重ねながら一から保育所を作り、初めてここで保育所の運営を経験することになります。園舎は空から見下ろせばエンジ色の屋根が大空を飛翔する鳥のイメージに、横から眺めれば、美しい街に停泊している大型客船(ともぶち号)の姿を思い描きつくりました。子どもたちと共にこれから大海原(未来)へ出航するイメージです。(ブルーを強調、制服もブルーを取り入れました)

昭和58年当時、保育所入園児は、旧児童福祉法に基づく「保育に欠ける乳幼児」ということでしたが、友渕に関しては、法改正後の「保育を必要とする」家庭がほぼ100%を占めているような状況でした。保護者の方は行政職や教職員、保育士、医療関係、建設設計、企業役員、自営業等、専門職の女性が多かったです。

当然、長時間保育があり、保育所事務所で延長保育(私の担当でした)をするなど、工夫を重ねて様々な取り組みを行い、楽しいことがいっぱいでした。保護者の皆さんも子育てを園任せにするのではなく、お互い意見を出し合い、よりよい保育について模索を続けていきました。環境に配慮した新しい街にふさわしく、街づくりやコミュニティーづくりにも皆さん積極的で、まるで友渕保育園を通して大家族が出来たような、そんな親密で活気あふれる空気に満ち満ちていました。

保育は、0・1・2歳児は”育ち“を大切にしながら、3歳児以降は”幼児教育“にも熱心に取り組み、お陰様で卒園していった子どもたちは、友渕小学校、友渕中学校とその後も教育レベルは高く、大人になって多方面に活躍している卒園児が多くみられます。

知、徳、体のメリハリをしっかりカリキュラムに組み込み、子どもの可能性を引き出し、一人ひとりの個性豊かな成長を願う、家庭と園の両輪で取り組む教育・保育が、今もしっかり根付いています。私自身、当時38歳の未熟な園長でしたが、地域の皆様、保護者の皆様に支えられ10年間ここで過ごすことができ、本当に素晴らしい経験ができたと思います。

34年前、初めて巣立った子どもは僅か9名でしたが、今も年賀状交換をしています。あれから何名巣立ったことでしょう。その子どもたちが親となり、再び子を連れて戻っています。私は、その子たちを見ながら、面影を探し、似ている所を見つけては楽しみ、当時を思い返します。保育者冥利に尽きる至福の時間です。

関連施設も次々とでき、いずれの施設も園庭開放や子育て支援と地域に向けて積極的に参加しています。

1999年(平成11年)高齢施設「デイサービス友渕」を開設。高齢者と子どもたちとの交流も活発です。

開設当初から今日に至るまで、友渕小学校や友渕中学校とは緊密に連携を取り、いつも見守っていただいています。地域、そして保護者の皆さまに育ててもらった私どもは、これからも家族のように一緒になって、歩んでまいりたいと考えています。

都鳥 渕をとびたち 島を求め 友にいこいぬ 見よ保育園児

昭和58年5月1日、元厚生省児童家庭課長 藤元克己様からお言葉を頂戴しました。

友渕児童センターの子どもたちと
友渕児童センターの子どもたちと

法人の歴史⑥
 都島東保育園と都島こども園(こども発達サポートステーション それいゆ)
その受け継がれていく精神と明日へのカタチ
ゆんたく都島 Vol.27(2017.8)

ここしばらく私は、「ゆんたく都島」で都島友の会の歴史について書いてきました。前々号では「都島児童館」について、前号では法人の「乳児保育」の歩みやその施設の成り立ちについて書きました。

私が各園、各施設の歩みを書き記そうと思い立った理由、それは、昨年法人が85周年を迎え、これから法人が90周年へと向かおうとする中で、これまで法人を支えてくださった多くの諸先輩方も少なくなっていく現在にあって、微力ながらも時代に生き証人として、各園、各施設の歴史や成り立ちを書き記し、今後法人を担い、将来の法人を支えてくださる若い人々に向けて、語り継がねばならない大切な法人の原点を、語り部となって伝えたいとの思いがあるからです。

さて今回は、都島東保育園と都島こども園(こども発達サポートステーションそれいゆ)の歩みについてふれたいと思います。この両園は法人の他の施設とは些か異なった成り立ちで出発しています。

今から半世紀ほど前、1970年頃から大阪市は待機児対策や女性就労支援等で、保育施設拡大として行政(公立)が建物を建て、経営や運営は民間に委託していく公設民営という施策を行ってきました。

大阪市の公設民営の発想理念は、
第一 民間で働く有能な人材をいかに活用し主任保育士を管理職へと起用する。
第二 公立・民間保育園の長所を取り入れ、地域社会へ貢献する施設作りをする。
第三 民間の持つ柔軟性や効率化を活かして保育サービスの充実を図る。
第四 民営化によって生み出される市の財源、又、待機児解消など子育て支援の取組をする。
―とのことだったように思います。

計14の保育所が、昭和45年に設置された財団法人大阪保育事業団(後の社会福祉法人なみはや福祉会)に委託されています。現在では公立保育所の移管も含め36か園にまでなっています。その内、昭和46年の池島保育所、昭和47年の中津保育所は当法人の主任保母を勤めた西平久子先生、中村清子先生が経営者兼園長として抜擢され、両先生は90歳まで現役をまっとうされました。

このような時代背景の中で、昭和47年(1972)、都島児童センターの建替えが行われ、都島児童センターは地域的に西都島地域(都島小学校校区内)であった事から、東都島地域(東都島小学校校区内)からも保育園をもう一カ園増やしてほしいとの強い要望がありました。

ちょうどその頃、大阪市水道局の公舎跡地に、大阪市が老人憩いの家を併設した保育所設置の計画が進んでおりました。一方、都島区の北側、毛馬地区では、大阪市の障がい児通園施設計画がありましたが、住民の反対運動にあい、中断しておりました。そこで初代理事長比嘉正子は大阪市に、「東都島地域に予定している保育所は通園施設を含め、私が運営してみます!」と提案します。市も公設、民営化を進めていた時期であり、都島友の会は既に保育事業歴45年の実績をもつ法人でしたから、委託が決定され、昭和51年6月1日、大阪市からの委託として都島東保育が開園、翌月には障がい児通園施設「都島こども園」が開園することになりました。

都島東保育園は開園当初、定員は60名でしたが、都島区のみならず近隣の城東区、旭区からも入所申込があり、9月には90名、翌年4月には120名と、定員数もどんどん増えていきました。また保育ニーズも多様化し、平成元年には延長保育、0歳児保育が始まり、そのため2階保育室を大改装し、その後も乳児の定員増による建物の改修等を行いました。公設の建物であっても建物の修繕、固定資産、備品購入は、当法人が行っていきました。

都島東保育園は法人の他園と同様、青空保育以来の伝統を引き継ぎ、(樹木、草花、砂、水、生き物)を取り入れた環境作り、地域との関わり(園庭開放、地域子育教室、東都島子育サロン、福祉ふれあいフェスタ、都島区民まつり、都島こどもカーニバル等)を大切にしていますが、特筆すべきは設立以来の伝統的な研究・研修への取り組みです。平成2年に第33回全国私立保育園連盟研究大会で〈子どもの思いやりを育てる〉を発表。同じ年には〈子ども、保護者、保育共に豊かなふれあいを求めて〉の研究を発表するなど、積極的に研究・研修の輪を広げています。平成28年には、平成4年度から20年以上にわたって続けている園独自の名物運動「壁のぼり」を実践報告にしてまとめ、日本保育協会から、”0歳児から5歳児までの発達段階に合わせた運動は、近年注目されている『非認知能力』にも寄与している“との高い評価で第11回実践奨励賞を受賞するなど、東保育園の伝統は今もなお健在です。

他方、都島東保育園の開園に1カ月遅れで、同年7月に同敷地内に障がい児通園施設「都島こども園」が開園しました。

障がい児通園施設とは発達につまずきのある2歳から就学前までの児童に対し、人とのかかわりの中で情緒の安定を図り、子どもたちの心身の発達を支援し、ご家族への相談と援助を行っている施設のことです。平成24年からは通園事業のほかに、相談支援事業や保育所等訪問支援事業、放課後児童デイも始めるなど次々と新しい事業にも取り組み、平成27年には園名を「こども発達サポートステーションそれいゆ」に変更、新たなスタートを切りました。

「こども発達サポートステーションそれいゆ」の特色は「都島こども園」発足から40年以上にわたって大切に培ってきた療育の力、個別療育や個人懇談、「インリアルアプローチ」「ボーテージ早期教育プログラム」といった様々な療法とそのノウハウです。一人ひとりを大切にし、療育の環境を整え、保護者の方との緊密な連携をとる…。今後も地域の児童発達支援の拠点として、園を飛び出し、積極的に地域に出向き、地域にいるすべての子どもたちが、個々のより適した環境の中で安心して過ごすことのできる支援、活動に取り組んでいきます。

さて”保育園と通園施設を同じ敷地で運営してみせる“と大阪市に啖呵を切って見せた比嘉正子の目論見。当初は手探り状態、なかなか難しい問題もあったようです。しかし開園から5年間、両園が積極的に交流に取り組み、試行錯誤の中、互いの保育室を行き来し、園庭を共有し、時や空間を共にする中で、子どもたちは互いの成長を自然に育んでいくようになりました。また併設されていた東都島老人憩いの家の利用者や地域の方々、平成13年には隣接して当法人の特別養護老人ホームひまわりの郷も開設され、いつしか東都島地域の中に、地域住民や世代間、障がいをもつ人もたない人の垣根を越えて、さまざまな人々の交流が生まれ、地域福祉のあるべき姿を予見させるような”あるカタチ“が少しずつ生まれてきたように思います。

こうして40年の歳月が流れました。その間、保護者の皆様、地域の皆様のご支援ご信頼を頂きながら両園とも運営を行ってまいりましたが、平成28年3月末、私どもは大阪市より公設の建物を買取り、委託から移管(完全民営化)へと形を整えることが出来ました。しかし40年の月日の中で、建物、設備の老朽化が激しく、空調設備、給食室の改善、トイレ、保育床、子どもロッカー、全室の照明器具、上下水管、電気、ガス器具、雨漏れの大補修などなど、一つ一つ追っかけながら補修、改善を行ってきましたが、それらによる弊害も多く、もはやその限界も見えてきております。

こうしたことを踏まえ、現在私どもは、都島東保育園、こども発達サポートステーションそれいゆの施設設備を一新し、隣接する特別養護老人ホームひまわりの郷と併せて、将来の地域福祉の活動拠点となれるようなヴィジョンのある整備計画を押し進めています。

地域は人々が暮らす場であり、子育てや青少年の育成、防災や防犯、高齢者や障がい者の支援、健康づくり、そして人々の社会貢献や自己実現など、様々な活動の基本となる場です。年齢を重ねても障がいをもっても、誰もが住み慣れた地域の中で、自分らしい生き方を全うできる…。そのようなあるべき地域のカタチ、地域福祉への理想に向けて、地域における「新たな支え合い」(共助)の拠点づくりを目指して、私たちはさらなる努力を傾けてまいります。どうかご支援、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。

都島東保育園の子供達と一緒に それいゆの子供達と一緒に
写真上 都島東保育園の子どもたちと一緒に
写真下 こども発達サポートステーションそれいゆの子どもたちと一緒に

法人の歴史⑤
 都島友の会、乳児保育の先駆者としての歩み
ゆんたく都島 Vol.26(2017.3)

都島友の会は平成29年3月1日で創立86年を迎えました。

昭和6年(1931)、都島公園で青空保育を開始し、山野家のご厚意で借用できた土地と園舎(都島幼稚園)から私どもの幼児教育、幼児保育の歩みは始まりました。やがて昭和6年(満州事変)、昭和12年(支那事変)、昭和16年(太平洋戦争)と続き、昭和20年3月、大阪府知事名で都島幼稚園の閉鎖命令が出され、6月には大阪空襲で園舎は焼け、焼野原となりました。その2ヶ月後の8月15日、日本は敗戦となりました。日本も都島幼稚園もすべては海の藻屑と消えたようなものでした。

しかし戦後、日本は再建に取りかかります。比嘉正子も大阪の地で焼野原をさまよう子どもたちの姿を見た時、この子どもたちを見放してよいのかと歯を食い絞る思いで園の再建に取りかかります。通称「子どものお宿」「子どもたちのやすらぎの家」、これが前号で私がご紹介した都島児童館です。

昭和22年児童福祉法制定、23年に児童福祉施設最低基準公布施行、昭和26年児童憲章制定と児童福祉の法制化は進み、民間保育所の設立は増えてきましたが、その姿は養護中心の保育所でした。

昭和30年代の日本は高度成長によって女性の社会進出が進み、それと共に、“子どもは社会の子ども”として集団の人間関係の中で育てようとする“託児”から“保育”へと向かう変革期に入ります。大阪市でも多くの新しい施設が生み出されました。地域の一般家庭で子どもを預かる家庭保育制度を全国に先駆けて新設。2歳児を対象とする低年齢児児童保育室も設置されます。昭和34、35年度には民間保育所に年間4000万円の貸付金制度を作り、乳児保育専用設備を作ることを大阪市は奨励しました。しかし本格的な乳児保育は進みませんでした。社会や行政においてもまだまだ乳児保育に対する理解はまだ乏しかったと思います。

そのようにまだまだ0歳児を受け入れる園がなかった時代、昭和35年に比嘉は都島乳児保育所を開設、いち早く0歳児保育を始めます。子育て経験豊富なベテラン職員3名が、0歳、1歳、2歳児の各担当になりました。保育室は診療所の一室です。設備も何もかもが不十分、あるのは職員の愛情と必死の奉仕精神・・・。それでも子どもに熱がでたり、事故や感染症など保育中の子どもに突発的な異変があった時、保育所が診療所の一室にあることはまことに心強いものでした(まさに今の病後児保育の先取りでした)。

子どもたちの食事は本園(都島保育所)から運び、職員はしばしばインスタントラーメンで済ませ、しかしこのインスタントラーメン(卵入り)はなかなか好評で、今でも懐かしいと語り草になっています。保育所というより小児病棟のイメージでしたが、環境も整い、ベッドの高さひとつとっても、子どもの安全や職員の腰痛への配慮も十分に考えられるなど、色々と細やかな配慮がなされてありました。当初は着替え(上着、下着)オムツ、布団すべて持参するもので、保育室一室の2分の1が荷物預所になってしまう環境でしたが敷地は広く、走っても転んでも痛くない四季折々の草花の生える野原が運動場です。ウサギを野放しにしたり、冬は雪遊びをしたりと恵まれた自然の中で子どもたちは育まれました。

昭和40年代に入ると、就労する女性の数はますます増加し、職場においても女性は不可欠な存在としてしだいに定着していきました。それに伴い、乳児保育の要求は社会的に急速に高まり、乳児保育も本格化します。そこで昭和41年、比嘉正子は住居と保育所を隣接させた都島乳児保育センターを設立します。1階が、事務所、会議室、給食室、沐浴室等を併設した0歳・1歳・2歳児の保育所、階上の2階3階4階は賃貸住宅という構造です。あくまで子どもが生活する場は第一に家庭、だからこそ家庭生活が営まれる住居と保育所は近接していることが望ましいとの考えからです。しかも賃貸住宅で乳児保育の資金調達を図るとのアイデアも込められていました。どんどん申込みがあり、(今の年度途中入所)8月には、60名から90名へ定員変更しました。園舎には廊下からも保育室からも出仕入れができる両面扉構造の専用ロッカーやおしめ交換台など独自のアイデアも盛りだくさん、おしめや布団は持参することなく業者にお願いをするシステムは、当時とても斬新なもので、清潔安心を確保し、保護者の負担(労力)を少しでも軽減できればとの配慮からでした。また1人1人の成長を細かく一目でわかるよう工夫された成長記録など、ハードソフト両面にわたりここまで乳児専門施設として行き届いた保育所は全国でも珍しく、国や地方行政の関係者をはじめ、全国各地から見学者は絶え間なく、園長、主任は、その対応に忙殺された時期もあったようです。また当時、「都島乳児保育センターに入るのは、大学に入るより難しい」といった笑い話もありました。

昭和48年に、0歳、1歳、2歳、計60名定員の都島第二乳児保育センターを開設しましたが、昭和50年になっても都島区内の保育ニーズは減少することなく、法人では昭和51年に都島東保育園、昭和58年都島友渕保育園、平成3年には都島桜宮保育園を新設することになりました。ただこの頃から全国的には出生数は大幅に減少し、平成元年には出生数は1.57に降下(1.57ショックと言われました)、平成5年には、1.46とさらに低下していきます。法人でも平成4年には都島乳児保育センターの定員を90名から60名に変更します。出生数減少に伴う変更でしたが、その際、一つひとつメリット、デメリットを全職員で話し合い丁寧に検討しながら、乳セ(都島乳児保育センター)は0歳と1歳、第二(都島第二乳児保育センター)は1歳から2歳、そして0歳から5歳児を包括する都島児童センターへと連なる3園連携体制を組み、0歳児から始まる一貫したカリキュラムのもとで、乳児のどの年齢から入所しても都島児童センターで卒園出来る体制になりました。もちろん法人の他の園を選んで頂く事もできます。

私たちは比嘉正子の「子どもは国の宝」との思いを出発点に、日本で最初の乳児保育の専門施設を立ち上げ、以降、今日に至るまで設備の充実をはじめ、数々の見直しを行ってきました。一昨年には職員たちが約2年の月日をかけて法人の乳児保育の集大成である乳児保育のガイドブックを完成させるなど、子どもたちはもちろん、保護者の皆様、そして法人の職員にとっても、いっそうより良い環境を実現するため、不断の努力を続けています。

法人のもつ先見性、先駆者としての「歴史と伝統」は、まさに、”古きを訪ねて新しきを知る“。乳児保育のみならず、「子育てサロン」「一時保育」「生活相談」「研修センター」等々、地域に根差した地域に貢献できる社会福祉法人として、制度や社会の狭間の中から新たなテーマを探っていく社会福祉の先駆者であり続けたいと考えています。

乳児保育センターの子供達と一緒に

法人の歴史④
 『都島児童館』に刻まれているもの
ゆんたく都島 Vol.25(2016.10)

都島友の会には、『都島児童館』という学童期の子どもに向けた複合施設があります。現在、都島に2か所、高倉、中野、友渕、計5か所の生活クラブ、都島児童センターに教育クラブがあり、生活クラブでは放課後、異なった年齢の子どもたちが一緒に予習や復習など勉学に励み、学校や家庭ではなかなか出来ないさまざまな遊びや体験を通して、自らで考える力、社会性、そして優しさや思いやりといった情操力を養っています。また教育クラブでは専任の先生から、絵画、ピアノ、英語や書道、モダンバレエなど、質の高いレッスンを受け、豊かな感受性や学力を身につけていきます。

さて『都島児童館』は、現在のこうした学童期の子どもたちが通う施設であると共に、私たちにとってかけがえのない法人の歴史や原点ともいうべき精神がそこに刻まれています。私たちにとって『都島児童館』とは何であるのか、少し書き記してみたいと思います。

今から85年前、創設者比嘉正子は都島の地に青空保育園を創設、その後名称を都島幼稚園と変えますが、託児所的な性格と幼稚園的な教育的要素を兼ね備えた保育施設として、都島の人々から愛され、順調に発展を遂げてきました。しかし満州事変、上海事変、太平洋戦争の勃発と、日本は全面的な戦時体制となり、夫や若者は戦争へ、妻や婦人は軍事工場へ動員、物資は欠乏し、食料は配給制度となり、配給だけでは栄養失調になっていく時代となります。昭和20年3月13日、戦時状況から大阪府知事より都島幼稚園に閉鎖命令が下され、園を余儀なく閉じることになりました。それから3ヶ月後の6月には大阪が大空襲を受け、都島は焼野原に、園舎は全焼してしまいます。そして終戦―。

戦争末期の非常時の窮乏の中で、比嘉正子は、長女、長男を次々と病で亡くしてしまいます。最愛のわが子を失い、精魂込めて作り上げた園舎を焼かれ、信じていた愛国の精神を打ち砕かれ、彼女は戦後、疎開先で打ちひしがれた日々を送っていました。

ところが疎開先のもとへ、「助けて下さい、疎開から帰れない」「働き場がない、住む所がない」「夫は戦地から帰ってこない、生活に困っている」との母親たちからの手紙。戦前の卒園生たちからも「行き場をなくした子どもたちが京橋で、天六の闇市で、拾い食いをしている」「焼跡の整理は何とかぼくらで引き受けるので、すぐ帰って来て下さい」との声…。大阪の街は両親を失ったいわゆる浮浪児たちがあふれていました。疲れ切った母親の姿、小学生が小さい子を背負って学校へ行く姿、教室では幼い妹や弟がうろうろしている…。

そのような光景を目の当たりにして、死んだ我が子に懺悔をし、もう二度と仕事はすまいと悔いていた彼女ですが、我が子の墓を建てるためと必死に貯めたお金を、困窮し苦しんでいる人たちにこそ使うべきだと思いを新たに焼失した園の再建に取りかかります。まだ日本国憲法も発布されず、児童福祉も何もない、まさに混乱した只中でのことです。

地域の人たちや卒園生たちの力も借りて、ようやく昭和24年11月、バラック小屋ながら、住宅と併設した子どもたちのための “雀のお宿”が完成します。それが、『都島児童館』のはじまりです。

バラック小屋でも、子どもたち、地域の皆さんは大喜び。“雨風はしのげる” “児童館へ行けば何か食べられる。” “妹、弟を背負って学校へ連れて行かなくても児童館で預かってくれる。”“習字、そろばん、絵、何か教えてもらえる。”…とにかく何もかもが欠乏し、子どものことのみならず、目の前にある困りごと、相談事、親も子も、そしてお年寄りも、何もかもが混然一体となった、そんなスタートでした。

都島児童館には珍しい堀こたつ式の図書室を拵え、それがマスコミにも取り上げられて、だんだんと広く名を知られるようになっていきました。ある時、小学生の子どもを1人あずかった事から2人3人と増え、学童の集団形成が大きくなっていきます。保育部の職員、ボランティアの人たち、お稽古の先生方、皆がごく自然に、学童の子どもたちの面倒を見るようになり、勉強を教えるようになり、習い事も始まりました。もちろん無料です。誰もが人々から求められているものに精一杯応える、応えねばならないという奉仕精神一筋の行為であったのだと思います。

行政もこれに注目するようになりましたが、補助金が出るようになり、指導員の配置ができるようになったのはずっとずっと後の事です。

戦後の混乱した只中からようやく制度や法整備が整う中、昭和25年3月10日、都島友の会は、大阪府知事赤間文三から財団法人として許可されました。

    これにより財団法人都島友の会が行う事業は、
  1. 児童福祉法による保育所
  2. 児童福祉法による児童厚生施設
  3. 社会事業法による医療保護
  4. その目的達成上、必要と認めたる附帯 事業 等

ということになり、都島友の会は、保育所であり、児童厚生施設であり、医療施設でありと、まさに ”揺りかごから墓場まで“幅広い福祉事業を行い、特に地域の方からは1と2を『都島児童館』として親しみを込めて呼ばれてきました。

昭和27年には財団法人から社会福祉法人に変更となり、日本の高度成長と共に、園児、児童人数ともに増え、昭和38年には園舎を増改築、昭和39年7月5日、都島区の学童保育の必要性を中馬馨大阪市長に申請、昭和39年7月15日付に”児童厚生施設“「都島児童館」の設置の許可(大阪市指令民第812号)が下りました。

昭和39年7月15日、許可が下りた「都島児童館」の設置目的と事業内容
○児童厚生施設「都島児童館」の設置目的及び理由

地域にあって15年間、学童の為に施設を開放し遊戯やサークル活動を通じて又、低額な利用料によるクラブ活動によって子どもたちの健全育成を目指して来ました。その他最近とみに高まって来た鍵っ子対策とも取り組んで来ました。それ故に従来の児童活動をより充実したものにし、積極的に地域活動を推進して行く為にも是非必要であると考え児童館を設置しました。

許可証
が、同施設内に併設されたことになります。

昭和35年に、都島保育所から乳児部が独立。昭和41年全国初の乳児専門保育所、都島乳児保育センターが誕生します。昭和47年には都島保育所、都島児童館(教育クラブ、放課後児童)が老朽化した木造から、安全、安心な鉄筋コンクリートの建築物に建て替わります。

それから40年後、平成26年には現在の都島児童センターの建替が行われ、都島保育所も、幼保連携型認定こども園となりました。

都島保育所の建物内にあった放課後児童健全育成事業は、平成27年4月1日には、都島生活クラブ、友渕生活クラブ、高倉生活クラブ、中野生活クラブ、計4か所で行うことになり、教育クラブを都島児童センター内で行うことになりました。

日本社会の発展や変遷、法律や制度の変更と共に、私たち法人も形態を変え、名称も変わり、それと共に組織や施設の内実も充実し、洗練され、整備されていきました。現在私たち法人は、大阪に8か園の幼保連携型認定こども園と保育園、沖縄に2つの保育園、そして療育を行う児童発達支援センター、2か所の高齢者施設があります。さらに地域の相談・生活支援の窓口としての比嘉正子地域貢献事業研修センターひまわりネットを運営しています。

しかしこれらの各施設が現在行っていることは、戦後、まだ法律や制度も整わぬ中、焼け跡の中から『都島児童館』を立ち上げ、地域やボランティアの人たちのご助力と共に、目の前の困っている方々に手を差し伸べようと力を振り絞ってきたその活動の中に、実は種子として萌芽としてみんな内在していたものです。

都島友の会という法人に、そして『都島児童館』という名前に一貫して流れているもの、それは制度や法律以前に、あるいは法律や制度のはざまで、今目の前に困っている方がおられるのなら、耳を傾け、手を差し伸べ、出来うる限り支えようとする、その精神、心なのではないかと思います。私たちの先人たちがそうしてきたように、今日の時代、そして将来にあっても、私たちはその心、その精神、そしてその志を忘れず、たゆまず歩んでいきたいと思います。

都島児童館の子供達と一緒に
(都島児童館の子どもたちと一緒に)

法人の歴史③
 85周年。今こそ温故知新の精神で―。
ゆんたく都島 臨時号(2016.7)

皆様にはご多忙な中、6月11日に開催いたしました85周年発表会、6月20日の「みやっこまつり」にお運びいただき、誠にありがとうございました。発表会での子どもたちの歌や踊り、パフォーマンス、本当に素晴らしかったです。職員の発表では、職員のみなさんの日々の勉強ぶり、精進しているその成果が披露され、感銘いたしました。また「みやっこまつり」では、ボランティアの方をはじめ地域の方々にも数多く参加していただいて本当に感謝申し上げます。

初代 比嘉正子、2代目 仲田貞子、そして3代目理事長として私、渡久地歌子がつなぎつないで85年、ようやく今日ここまで歩んでくる事が出来ました。その間、多くの皆様との出会いがあり、ご指導、ご支援、ご協力いただきました事、ここに改めまして御礼申し上げます。

85周年発表会では、都島友の会の成り立ちや原点、そこから生まれた理念など、法人の歩みを職員たちの作った映像でご紹介させていただきましたが、私自身、映像を観ながら、「ああ、こんな事、あんな事があった」と、それぞれの時代や出来事が走馬灯のごとく浮かんでは言葉にならぬ思いが心に去来しておりました。

今から75年前、日本は戦争という大きな、大変つらい出来事を経験いたしました。その中にあって比嘉正子、比嘉家にも、暗雲立ち込めるように悲運、不運が次々と舞い降りてきました。「勝つと信じた戦いに敗れ、そのうえ1944年の1月と2月に続けて2人の子を亡くしてしまい、私はなんて愚かな母だと悔やみきれぬ後悔の中、再びもう仕事はすまいと懺悔の日々だった・・・」と、後年比嘉先生が私に話した時の表情が今も私の瞼に焼き付いて離れません。

昭和20年3月、大阪市内の三分の一は焼野原になり、多くの人命が失われました。都島も京橋から北一面は焼野原になったそうです。その年の8月、日本は敗れ、戦争が終わります。当然昭和6年からあった都島幼稚園の園舎も灰となり、何も残っておりませんでした。衣食住、何もかも足りない、その日その日を必死で生き延びてきた話をよく聞きました。「都島の焼け跡地にはお腹をすかしている子どもたちがいっぱいだった。地べたにあったものを拾い食いしている子どもたち、生きるための労働に育児にと疲れきった母親の姿、小学生の子どもが幼い兄弟を背負って学校へ行き、教室ではその子の妹や弟がうろうろしている姿を目のあたりにしてしまうと、亡くしてしまった我が子の墓を建てようと必死に蓄えていたお金を、生き残ったこの子たちのためにこそ使うべきだと決意した」と、都島児童館建設への想いを語った話を聞くたび、私は涙がとまりませんでした。今も皆さんにこの事を伝えようとすると胸がはち切れそうになります。

終戦後、法整備も何も全く整わない中、お国や行政には頼れず、しかし目の前の困窮し苦しんでいる親や子どもたちに何が必要なのか、どうすれば彼らを救うことができるのか、ご近所の皆様や卒園生たち共々園の建設を手伝っていただき、寄せ集めの材料で拵えたあばら屋のような園舎とはいえ、それでも子どもたちにとっては雨風がしのげて楽園だったとのことです。習字・そろばん・絵画・宿題と、再建された児童館で子どもたちは勉強をし、ペコペコだったお腹もお味噌汁やいろんな具材が入った“ごちゃごちゃ煮”を食べ満たされて育っていきました。毎年3月に皆さんが材料を持ち寄って作る法人伝統の『ちゃんこ鍋』はまさに“ごちゃごちゃ煮”が由来です。「おいしいですネェ、夕食代わりに楽しんでいます」と言っていただける法人の名物にもこのような歴史があったのです。現在80才前後の皆様からは、「児童館があってどんなに助かったか、ありがとうナ」「父や母も児童館があったから安心して働けた感謝していたヨ」と今も児童館があってどんなに助かったか話をして下さいます。地域の皆様がいまだに法人を都島友の会でなく、親しみを込めて「児童館」と呼んでくださっているのもその名残りです。

法人の歴史や理念を語るとき、私たちはともすれば比嘉正子という創設者、法人設立以降の変遷や経緯だけを語りがちです。しかし法人の原点を考えてみますと、大正10年わが国最初の社会福祉施設として設立された大阪市北市民館、そして初代館長を務められた志賀志那人先生の存在を忘れる訳にはいきません。比嘉正子は昭和6年に都島幼稚園を設立するまで、大阪北市民館に保母として働いておりました。大正時代の後半、大阪市北市民館のあった天六周辺はひどいスラム街の真っ只中でした。そこで保母として働いた体験、そして志賀先生に対する尊敬や共鳴、さらには志賀先生から「貧しきもの弱き者たちのための幼稚園を作れ」との教示が、その後の彼女の人生、そして法人の設立に多大な影響を与えることになります。あるいは、比嘉正子が17歳の時、沖縄から単身大阪に来て、”留学生“として在籍した「パプテスト女子神学校」、現在の大阪市淀川区にありますミード社会館の前身にあたるものですが、後年比嘉は、「パプテスト女子神学校は文化的で清々しく、本当に清楚な感じのする学校であった。毎日バイブルを勉強の基礎とし、講議や実習は厳しかったが、校長、教頭はじめ多くの先生達は極めてヒューマンで、日常の中に自由とユーモアが溢れていた。男子のバイブルクラスもあり交際も自由であった。私の人間形成はこの時期にこの環境でなされたと思う。」と自らの手記に書いております。最も多感な時期に校長先生であったミス・ミード、彼女は生涯”日本の女子教育とキリストの伝道に捧げた方“ですが、ミス・ミード先生から受けたキリスト精神、人間としてのあり方、さらに学生生活で味わったアメリカの開明的で先進的なモダニズムや自由主義、男女平等の空気など、彼女が100年前に受けた教育は、北市民館での経験、志賀志那人先生の薫陶と共に、その後の人生の礎となり、私たち法人の理念にも大きな影響を与えていると思います。

比嘉正子という女性に様々な出会いがあり、そのことが彼女の人生に大きな影響や力を与えているように、私たち法人にも、それ以前から培われてきた日本の福祉、その歴史や先人たちの存在があることを忘れてはならないと思います。特に大阪には先ほど申し上げた北市民館をはじめ、日本の社会福祉、地域福祉の先頭に立ってきた多くの先達の方々、その長い歴史があります。それらの方々のお力や土台の上に立って現在の私たちがあること、そのことをもう一度深く胸に刻まねば、と思います。

さて昨年、日本は、幼保連携型認定こども園をようやく発足させました。教育の質の向上や見直し、とりわけ幼児教育の見直しや整備は喫緊の課題でありました。これまで日本では、「これは厚労省、ここまでは文科省」と、いわば大人同士の力関係があり、なかなか前に進みませんでしたが、内閣府指導のもと、ようやくのことで出発しました。但し、なんとか一歩踏み出したものの、様々な要因もあり、大阪市にあっては幼保連携型認定こども園への移行は数カ所しか進んでいません。子どもたち、幼児に今本当に何が大切か、人間としての育ちのなかでの教育、保育養護の大切さをもっと声を大にしていかねばなりません。

あるいは人口減少化社会を迎えた今日、高齢者の問題、若年層の雇用情勢の悪化、地域コミュニティの脆弱化など多くの課題が山積し、しかも国家財政の緊迫化する中で、すべてを国頼みする訳にはいかない状況になっています。またこれまで日本の福祉の一翼を担ってきた社会福祉法人も、制度改革や取り巻く環境の変化の中で、その役割や存在意義が大きく問われています。

これまで何度も申し上げていることですが、私たち法人の福祉の目標は、”揺りかごから墓場まで“生涯にわたって地域や地域住民の方々と社会福祉活動を通じて関わり、「すべての人が健康で文化的かつ快適な生活が守られ、豊かな人間生活が実現できる」ことを目指し活動しています。昔、比嘉正子は申しました。「人間は本来、皆な平等である。しかし生きていく社会の中には矛盾や不平等もたくさんあり、その不平等をいかに少なくしていくか、そして貧しい者、弱き者、権力のない者、制度や社会から零れ落ちた者に寄り添い、彼らの力となるべく社会事業に身を投じていかねばならない」。
まさしくここに福祉事業、福祉の原点があると思います。

『温故知新』―。創設85周年を迎えた今、私はこの言葉、この精神を再び思い起こし、先人たちが培い、切り開き、継承してきたその土台に立って、私たち一人ひとり、そして法人全体が力を合わせ、過去、現在、未来を“つなぎつないで”、本当にこの法人を引き継げて良かったと思えるよう、頑張ってまいりますので今後ともよろしくお願い申し上げます。

85周年挨拶

法人の歴史②
 創立85周年を迎えた都島友の会
ゆんたく都島 Vol.24(2016.3)

85周年

平成28年3月1日、都島友の会は85周年を迎えました。

法人の誕生した大阪市都島区は大阪市の北東部に位置します。設立当初(昭和6年)の都島は日本の近代化に支えられた大阪市の急速な発展によって、農村から住宅地・工業地・商業地の混在化した市街地へと大きく変貌を遂げました。しかし戦争が始まり、大阪大空襲で都島は焼け野原となり、敗戦を迎えます。

戦後、焼け野原から出発した日本の中で、都島も高度成長と共に繊維業や軽工業を中心に発展、人口も増加して行きましたが、昭和40年代後半から公害等の問題で工場は地方へ移転し、人口も昭和40年の3万1303世帯をピークに減少をたどります。

その後、繊維工場等の広大な跡地は大規模な超高層マンション群に生まれ変わり、市立総合医療センターや福祉施設、毛馬桜宮公園、淀川開発等々、また生活関連施設も整備され、水と緑に恵まれた魅力あふれる“街”に変貌を遂げました。世帯数も平成26年には、5万1452世帯になるなど、ドーナツ化現象から都心回帰現象へと時代社会の変遷とともに人口も増え、子どもの数も増加していきました。

現在、都島区は65歳以上(高齢者層)の世帯が3万1303世帯に及び、少子高齢化の進行や居住家屋の老朽化、核家族化や単身世帯の増加等々、ご多分に漏れず日本社会の抱える幾多の問題が集約されたように、課題もまた山積しています。

私たち法人は、日本はもとより、このようにも変遷してきた都島区の歴史と軌を同じくして変化を遂げて来たのではないかと思います。先日、古い資料を整理していると、比嘉正子が、60周年(1991年)を迎えた時のことばがありましたので、すこし紹介したいと思います。

『…私は、昭和6年、26歳の時、3人の乳幼児を育てながら青空幼稚園を始めました。名もなく、金もなく、地位もなく、あるものは銀行員の夫と3人の子どもだけです。大阪北市民館の館長であった志賀志那人先生から「キミ、都島へ行って幼稚園を作らないか、子ども3人育てるのも20人育てるのも一緒だよ。人間が作った建物だけが園舎ではない。ブランコやすべり台だけが遊具ではない、天然自然、神様はおのずから子どもたちに素晴らしい恵みを与えて下さっている。木の陰や、野原、公園は、みなこれ園舎である。石ころ、虫けら、花や木の葉、土など、これみな子どもの恩物だよ。」とお話しされました。尊敬もし、社会福祉の先達者として著名な先生の迸る保育理念のひとこと一言が身に染み、眠っていた社会事業への情熱が炎のごとく燃え上がり、やれるような気持ちが芽生えて「よし、やろう!」と決心するまで、2日とかかりませんでした。

開園をPRしてみると、45名の子どもが集まり、3名の女性が奉仕を申し出てくれました。園の名称は「北都学園」。今にもでっかい立派な学園が出来そうなイメージの名前と看板でした。借家の間口3間ぐらいの集会場で点呼を終えると、都島小公園で歌ったり、木陰で紙芝居やお話、お遊戯、ゲームをするのが日課でした。子どもの楽隊を編成して、プカプカドンドン太鼓を鳴らし、趣を変えて区内を行進したり、私の3名の子どものうち下の子は乳母車に荷物と一緒に積み、上の2名は園児と一緒に保育という毎日が続きました。雨の日は、狭い土間でピアノを弾いて歌とお話し、昼まで時間がもたず、午前中保育で切り抜けたりもしましたが、昼からの分の保育料をお返ししなければと本気で心配しました。

半年後、地元の山野氏にお願いし賃貸の園舎を建てていただき、土地、建物をお借りしました。当初1円だった保育料を2円に値上げ、その中から家賃を支払いました。園児も80名になり、ようやく安定した保育を続けることができるようになりました。戦争が始まり戦時体制となった頃には300名の子どもを預かるまでに膨れ上がりました。戦争の嵐の中では長時間保育は当然、避難訓練が日課の保育でした。食糧難、薬、衣類、履物、無い無い尽くしの中、昭和19年1月、2月と続いて、我が子2名を病死させてしまいました。昭和20年6月には、大阪第2回目の大空襲で園舎は焼失、ちょうど3月に休園しており、子どもたちの命は、守れました。

昭和20年8月、終戦。疲れ果てた母子が「夫が戦死しました。」「生活に困っています。」「働き口を探しています。」「子どもを預かって下さい。」「助けて下さい」等と訪れ、仏心が湧いて「よし、死んだわが子の墓を建てるより先に、生き残った人達の為の保育園をつくろう!と再び決意をして、昭和24年に都島児童館を再建、財団法人第1号として認可を受けました。

顧みて60年間の道のりは険しかったです。私たちは0才児保育も民間保育所の草分けでもありました。戦後のバラック小屋の様な建物も今日では鉄筋コンクリート建となりました。0才児から就学前の子どもたちを預かり、学童保育、さらには発達に療育を要する子どもたちの施設と、9カ園の施設になりました。今では1日1000名前後の子どもたちが出入りしています。

これまで私は子どもたちから多くのものを学びました。子どもには、子どもの世界があり、夢があります。時々、刻々と成長してゆく子どもたちには、未来があります。私の夢を子どもたちに託していきます。…』

戦前、戦中、戦後と法人の歩んだ道は、乳幼児や障がい児の保育・教育・療育はもとより、女性や生活者、地域や高齢者へと広がる日本の福祉事業の歴史そのものでした。

比嘉正子が亡くなった1992年以降、日本は本格的な少子高齢化社会を背景に、1997年(平成9年)に児童福祉法が改正、2000年(平成12年)には高齢者向けの保健・福祉サービスを統合した介護保険法が施行され、児童や高齢者をはじめとする福祉のあり方は大きく転換していきます。また昨年2015年4月からは、国の教育再生のためのグランドデザイン「子ども・子育て支援新制度」による「幼保連携型認定こども園」がスタート、私たち法人でも都島児童センター、都島友渕保育園、成育保育園が、それぞれ認定こども園都島児童センター、友渕児童センター、成育児童センターとして新たな出発をすることになりました。

今日、日本は人口減少社会の中で、止まらない少子高齢化の進行、核家族化や単身世帯の増加、終身雇用の変化や若年層の雇用情勢の悪化、地域社会における支え合いの脆弱化など多くの課題とともに、都市部では待機児童の問題、あるいはこれまでの公的な支援では対応しきれない「制度の狭間にある」社会的排除や地域の無理解から生まれる新たな問題も起こってきています。またこれまで日本の福祉の一翼を担ってきた社会福祉法人を取り巻く環境も、日本の社会の構造変化や経済的状況等から大きく変化し、あらためて私たちの存在意義が問われています。

私たちは創立85周年を迎えるにあたり、法人全体、職員一人ひとりが、法人が歩んで来た社会福祉活動、その理念や目標を今再び深く振り返り、再確認することで、これからも皆様の信頼に深く応えられる地域に根差した社会福祉法人として、更なる前進を図りたいと考えています。またこの1年、6月に開催する「都島友の会 創立85周年記念発表会」をはじめ、記念行事や講演、研究発表会、各園での運動会や発表会、地域イベントの参加等を通して、地域のさまざまな福祉施設やボランティア、NPO、そして住民の方々と深く連携し、安心して次世代を育むことのできる「暮らしやすい地域づくり」、その第一歩となる取り組みを行っていきます。どうか共につながり、共に結ばれ、共に支えあい、新しい都島をつくっていきましょう。

理事長先生と一緒に
(都島児童センター、都島乳児保育センター、都島第二乳児保育センターの職員たちと一緒に)

法人の歴史①
 戦後70年。節目の年に―。
ゆんたく都島 Vol.23(2015.9)

「子ども・子育て新制度」がスタートして、約半年が経とうとしています。一歩踏み出したかのように思いましたが、少々混乱しているようです。今までの保育園・幼稚園が残ったまま、そこに認定こども園が新たにつくられ、三様の施設ができてしまいました。法律的にも保育園の子どもは児童、幼稚園は幼児、幼保連携型認定こども園では園児と、子どもの名称が三つもあることになります。新制度への移行は大人同士の綱引きというか、いろいろ大変な作業でありました。煩雑なことも多く、申請書など膨大な書類の山、そのような中、都島友の会は新制度の幼保連携型認定こども園(3園)と保育所型保育(大阪5園・沖縄2園)の2本柱で出発しました。保護者の皆様には3月から4月にかけて、法人の成り立ち、新制度への移行についてご説明させて頂き、事務的な手続等にもご協力賜りました。

もちろん制度変更があろうと子どもたちは今迄と何ら変わることなく、みんなよく遊びよく学び、子ども同士いたわり合い、譲り合い、時にはそれぞれ我も張ってと、本当に邪気のない、心なごむ有り様は以前と同じです。知・徳・体、皆さん本当にバランスよく成長されていると思います。

変化があると言えば、こちらの側でしょうか。午前、午後の過ごし方にも変化があり、職員間の話し合いも多くなり、幼児教育と保育、養護、法人の理念・基本指針・教育・保育目標等の確認や振り返りなど、様々な事をしっかり共有できるようになりました。また私たちの働くこの場所は、子どもたちの生涯に渡る大切な人格形成の基礎を培っていく場である事を再認識し、そのことから法人の宝というべき数多くの資料を改めてまとめ直す良い機会ともなりました。

0才児保育から始まり、そこから小・中学校へいたる長い橋渡しともいうべき保育・幼児教育のまとめ、リスクマネージメントや危機管理、管理職としての事業計画、職員の手引き(心得、研修について、実践、報告、まとめ)などなど、多種多様な分野の法人の大切な資料や知恵を、いま各園、各職員たちが、分かりやすく今後の世代にも引き継げるようにと、編纂し新たに作り直す作業に勤しんでいます。

さて振り返りといえば、今年は戦後70年の年でした。安倍首相の戦後70年談話をはじめ、日本の戦後を振り返る数多くのメディアの特集、論説がありました。戦後といえば、私ども都島友の会の創設者、比嘉正子には社会福祉や幼児教育の担い手のみならず、その後半生には多くの人々にその姿を知らしめたもう一つの大きな活動があります。

比嘉正子は沖縄で生まれ首里パプテスト教会で洗礼を受け、17才で大阪パプテスト女子神学校(現在 淀川区のミード社会館)に留学、卒業後、大正12年大阪市立北市民館の保母となり、昭和6年には都島幼稚園を設立しました。以降、幼児保育を中心とする社会福祉事業に邁進し、戦後は日本で初めての乳幼児保育を始めるなど、まさに戦前、戦中、戦後を社会福祉や幼児教育に一身を捧げ、波乱万丈の生涯を駆け抜けてきたのです。

一方、終戦後、戦争中の疎開地であった大阪鴻池新田(現在の東大阪市)で子どもたちの空腹や飢え、社会の混乱に立ち上がるべく、地元の主婦たちとともに「米よこせ」の陳情を始めます。日本の戦後史に残る「主婦の会」、後の「関西主婦連合会」の誕生です。そして戦後の時代を、消費者運動、婦人運動、女性解放、女性教育へと活動の場を広げ、政府の各分野の諮問委員も数多くつとめ、晩年は行政改革に力を注ぎました。社会運動家としての比嘉正子の姿です。

社会福祉から児童教育、消費者・婦人運動・・・、比嘉正子の幾多の顔に人々は戸惑うかもしれません。またその旺盛なバイタリティの源はいったい何だと呆れる人もいるやもしれません。沖縄、パプテスト女子神学校、大阪市北市民館などでの出会いやそこで培われた思想や信念、さまざまに答えはあるでしょうが、昭和20年8月の終戦、焼け野原の中でお腹をすかし、さ迷う子どもたちを何とかしようと、まだ憲法も児童福祉法もない混乱の只中にあって、今、手を差し延べなかったらこの子たちは死ぬ、病気になる、教育が受けられない、目の前にある差し迫った現実を何とかしようと、法人の戦後の原点である「都島児童館」を設立、已むに已まれぬ使命感で飛び込んでいくその力こそが、比嘉正子のあらゆる活動の原動力、源だったと私は思います。

「都島児童館」、そこは、そこに行けば何か食べられる、習字、そろばん、絵、ピアノ、何でも習える、勉強も教えてくれる、まさに子どもたちの集える場所でした。幼児クラブ(短時間)・保育クラブ(長時間)・学童クラブ(放課後クラブ)・教育クラブ(習字・そろばん・絵・ピアノ等お稽古)、そして母の会、女性教育部等があり、子どもも大人もそこでさまざまな活動や経験を通して、数多くの事柄を学んで巣立っていきました。

花にはお日様 子どもに平和

強い子 良い子 三つ子の魂百まで

目を離すな 手を貸すな

温故知新

当時から変わらぬ法人の子育てのスローガンです。

法人の基本理念

社会福祉法人都島友の会は、多様な福祉サービスを総合的に提供できるよう創意工夫し、利用者の個人の尊厳を保持しながら、子どもたちの心身ともに健やかな育成と、個人が持っている能力に応じ、自立した日常生活を地域社会において営むことができるよう支援することを基本理念とする。
平成27年3月迄に当法人を卒園していった子どもたちの人数

戦後、私たちの法人から子どもたちは大きくたくましく育っていきました。子どもたちはやがて成人となり、戦後の日本の社会を担っていきました。

私どもが日本の社会福祉・教育の一大改革である今回の新制度に迷わず手を上げたのは、私たちの原点「都島児童館」が現在の「子ども、子育て新制度」のまさに先駆けであり、この制度が私たちの原点へ回帰する一大契機だと再認識したからです。法人の各施設がこれからもいっそう地域ために貢献できるよう、地域の皆様に利用しやすく子どもを安心して預けられる施設となれるよう、そして何より子どもたち自身が心から楽しく、自ら自身がすこやかに成長できる子どもの楽園であり続けることを願っています。またそのために職員一同、なおいっそう精励する覚悟です。

さてこの夏、私どもの運営する『比嘉正子地域貢献事業研修センター(ひまわりネット)』の5階に、上述した比嘉正子の婦人運動・消費者運動の歴史資料をまとめた「比嘉正子記念室~戦後の礎を築き~」を開設しました。日本の消費者運動、婦人運動の歴史の一端をご覧いただけると思います。また私たち法人の歩みや社会福祉関係は都島児童センター本部2階に、資料室を設置しております。興味のある方は是非お気軽にお立寄り下さい。

※比嘉正子地域貢献事業研修センター(ひまわりネット)は、創立者比嘉正子の意志を引き継ぎ、近年社会問題化している、貧困の連鎖で教育の機会が奪われる「子どもの貧困問題」等をはじめ、子どもたちの生命や育ちを守り支援していくプラットホームとなろうと開設運営しています。理屈だけでなく行動あるのみで、ささやかでも前進するのが我々の役目と思っております。どうか子育て、介護などで悩んだら、迷わずお気軽にご相談ください。
◆比嘉正子地域貢献事業研修センター 大阪市都島区都島本通3-16-8

認定こども園 成育児童センターの子どもたちと共に
(認定こども園 成育児童センターの子どもたちと共に)