業務の合間にー。ふと心和む、あれこれのコト。
理事長 渡久地歌子

2019年末に中国で初の症例が確認された新型コロナウイルス感染症(COVID‒19)。ウイルスは瞬く間に地球上に広がっていき、パンデミックを引き起こしました。3年以上の長きに渡る世界的流行は日本の社会はもとより、当法人においても、子どもたちや高齢者、職員、保護者や地域の方々にも多大な影響を与え、その間、私たちは思いもよらぬ辛い経験をし、しかしこの試練をよくぞここまで耐え抜いてきたと思います。

もちろんいまだ感染症が無くなった訳ではありません。まだまだ衛生安全管理等は継続し、しっかりと法人が関与する子どもたちや高齢者の方々を支え、守っていかねばなりません。

ただこの間、日々の業務の中、ふと心が緩む、思わず気持ちが和んで笑みがこぼれるようなこともありました。ここ最近、私の中で印象に残った、心に残ったことをほんの少しですが紹介したいと思います。

私が理事長に就任してから、毎週月曜日には前週の出来事(園児や保護者のこと、行事、会議、研修、職員、建物・設備安全管理、感染症、その他病気、入居者、利用者稼働率etc)について各園各施設からメールが届きます。

この8月の報告には、スイカ割り、地蔵盆、誕生会、園庭での果物の収穫といった子どもたちの夏の様子、公開保育での職員の様々な気づき、あるいは夏後半の保育上の確認事項、一時保育や病後児保育の利用状況、キャリアアップ研修、ひだまりカフェの盛況ぶり等々、次々と数多くの報告がメールに入ってきました。

なかでも、先日、友渕児童センターに友渕中学校の演劇部の皆さんが来園し、「オズの魔法使い」を発表してくれたとの報告がありました。その際、メンバーの中に友渕の卒園生がおり、在園していた頃、年長児の発表会で同じ「オズの魔法使い」をしたそうです。当時は先生たちが大道具、照明、音響、衣装など何から何までを準備し、台本はひらがなで一言一言伝達してもらって覚えたとか。それが今では、舞台づくりから配役、演出にいたるまで全てを自分たちで準備し作り上げ、そのてきぱきと動く姿に、往時を知る職員たちは、立派に成長したその姿に、思わず胸を熱くしたとメールにありました。まさに保育士冥利に尽きるエピソード、その報告に私も思わずジンとしてしまいました。

最近の私たちの悩みの一つは運動会の練習場所の確保です。子どもたちの声、太鼓や楽器の音、音の感じ方は人それぞれ違います。ある方にとっては子どもたちの声が微笑ましいものだとしても、別の人にとっては耐えがたい苦痛と感じているかもしれません。とはいえ、子どもたちの声や音をゼロにするのはとても難しいことです。近年私たちは運動会の練習場をはじめ、近隣の方々の理解を得ながら円滑な園の運営をすることに努力を払ってきました。建物の遮音対策などハード面の配慮はもちろんですが、何よりも大切なのは地域の方々との交流。例えば園の行事にボランティアとして参加していただいたり、園児が地域の行事に参加したり。地域の方がより園に対して親近感を抱いてもらえるように、そして『みんなで子育てを行なっている』との意識を共有できるようにしていくことが何よりも肝要なことなのでは︱、と思います。おかげさまで私たち法人は都島の地に90有余年。3世代4世代に渡りつながりを持つ住民の方々も多数おられます。これまで練習場に使わせていただけたグラウンドが使用できなくなった今年、地域の有志の方のお力でなんとか確保できることになったとの有難いメールも受け取りました。あるいは地域の高齢者の方々が中学校のグラウンドの隅でされているジャガイモ作り。そこに園児たちがジャガイモを掘る貴重な体験をさせていただいたとの嬉しい報告も︱。本当に地域の皆様には感謝感激です。

今年も各園各施設で地域の方のご指導のもとで、夏野菜、果物を収穫することできました。きゅうり、ナス、トマト、じゃがいも、イチゴ、イチジク、スイカ、ブドウ等、道行く人たちが足を止めて「これはいいナァ!」と笑顔で通って行かれます。

高齢者施設ではボランティアグループによるフラダンスやマジックショー、ハーモニカ、ウクレレ合奏、紅白に分かれてのカラオケ大会があったと︱。入居者利用者の皆さんの歓声、美声、楽しげな笑顔が浮かんでまいります。

学童保育は、夏休み中、1年から6年生までの共同生活、その体験からの学びは大きい。その中で今年計画したのは〝ニフレルで遊ぼう!”〝ニフレル”ってどこ?万博公園のことらしいです。電車に乗っての往復、会場内でのマナーやルール、熱中症対策の心得も班ごとに確認し合い出発。触れ合いが楽しい動物園・水族館でキツネザルに触れ、孔雀が羽を広げた瞬間に感激し、岡本太郎の太陽の塔の大きさ、迫力に驚いたこと…。帰りには「バイバイ、岡本太郎」と手を振る姿に職員たちは思わずニッコリ。 〝してやったり!”との思いだったかもしれません。

コロナ禍で開催出来なかった夏まつり、地域の子どもたちや高齢者、ご家族も多く参加されていました。食べ物、飲み物、ゲーム、全てチケット100円ですぐさま完売でした。職員も大変でしたが、久しぶりの大勢のお客様に楽しそうでした。

保護者参加、参観行事が復活、乳児保育の参観では、両親共の参加数が多く、職員の様々な工夫で、家とは違った我が子の遊ぶ姿を見て、保護者の方は安心と期待に胸ふくらませた1日を過ごされたようです。

各施設、ようやく少しずつ日常を取り戻しつつある報告を受ける昨今、長い間、緊張を強いられた私の心にもほんの少しあたたかなものが流れてまいりました。再開した日常の暮らし、その詳細は各園各施設、後日、職員の手づくりの〝ミニゆんたく”を特別配布します。楽しみにお待ちください。

月日が経つのも早いもので今年はもう創立92年目。以前『90周年記念誌』をお渡しした卒園生から突然、「比嘉正子を朝ドラにする会」を勝手に立ち上げたとの連絡がー。その卒園生は「私の会社を日本で1番にしたいと思っています」とあっけらかんと語る若き女性実業家。彼女の話を聞いていると、比嘉正子の生涯を朝ドラにすること、今にも易々と実現しそうな勢いで、思わずこちらも引き込まれてしまいました。

一方、昨年来から元福祉新聞に関係していた女性ライターが「日本の消費者運動の生みの親」比嘉正子を本にまとめたいと熱心に取材、ようやく原稿が出来上がってきた時でした。(11月末には発行予定です。皆様、是非お買い求めを^^♪)

これはすごい!女性同士のステキなマッチングに私の胸は高鳴り、「よし決めた!当法人95周年に向かって、これを実現しよう」エネルギー溢れる若き二人に触発され、80歳を目の前にした私は、嬉しい、楽しい、わくわく感で、期待に今、心躍らせています。この紹介は次回。皆様、お楽しみにー!

『ポストコロナ時代に向けて』~人と人とのつながりを取り戻すために~
理事長 渡久地歌子

気がつけば早や3月になりました。寒く冷え冷えとした空気がいつしか柔らかく緩み、草木は芽生え、うららかな春を迎えようとしています。

令和5年(2023年)3月1日、創立92年を迎えたこの日は新型コロナウイルス感染拡大から4回目の春を迎えることになります。

コロナ禍もようやく落ち着きを見せ、本年5月8日には感染症として重症化リスクや感染力が高い2類相当の扱いから、季節性インフルエンザと同じ5類に移行されます。この3年、世界は大変つらい時期を過ごしました。この間、世界で多くの方々が新型コロナウイルスに罹患し、亡くなられました。心からご冥福をお祈りいたします。渡航や人の移動、人の集りも制限され、そのため旅行、イベント、音楽会、果ては外食に至るまで大きな影響を蒙ることになりました。

都島友の会でも私たちの暮らしは一変、日常の活動や行動が大きく制限されるなど、その影響はとても大きなものでした。高齢者施設ではクラスターや感染防止の徹底のため、入居者の外出が出来なくなり、面会も大きく制限されるなど、大変なご不便をおかけすることになりました。また児童施設では行事やイベント、日常の活動一つひとつに三密の壁が立ちはだかり、これまで当たり前だと思われたことが出来ない中、それでも職員たちは感染防止に努めながら、日々、様々な工夫を凝らし、こころをひとつにして教育・保育を行ってきました。もちろん、保護者や地域の方々のご協力やご支援があっての賜物です。本当にありがとうございました。

コロナ禍でこれまで空気のように当たり前であったことが当たり前でなくなるというかつてない経験、とりわけ大きかったのは、ソーシャル・ディスタンシングによって、毎日顔を合わせるのが当たり前だった人たちと会ったり集ったりすることがとても難しくなったことではないでしょうか。そのことで人や社会と自分が直接つながっているという感覚や経験が希薄に、またその重みや意味も変わっていったのではと思います。

 

コロナ禍を経て、社会が大きく変わっていく可能性が指摘されています。たとえば、本格的なデジタル社会の到来。パソコン画面の「向こう」と「こちら側」、いわばバーチャルな世界でコミュニケーションを取ることが日常となり、人と人との関係、そのつながりのあり方もまた変化していったようにも見受けられます。リモートでも十分に仕事がこなせ、移動にかかる無駄な時間が減る一方で、直接でなければ得られない人とのつながりが失われることが懸念されています。

Withコロナ、Afterコロナの時代に向けて、私たちはこれから時代とどう向き合い、どのように対していけばよいかと考えます。

私たち法人は、これまでから人と人とのつながりをことのほか大切にしてきました。子どもたち、高齢者、保護者やご家族、そして地域の方々…。そして様々な事情で人との関係が断たれ、社会から零れ落ち取り残された人々に向けて、本来あるべき人とのつながりを取り戻すこと、その支援をすることが私たち社会福祉事業をする者の大きな使命だと考えてきたからです。

今回の危機では、富裕層から貧困層まで、世界中の人が等しく感染リスクにさらされるなか、感染は他人事ではなく、社会に暮らす私たちひとり一人の問題だというある種の連帯感が生まれ、同時に多くの人が「個」で生きることの厳しさや寂しさ、弱さに気付くきっかけになったと思います。個人は一人一人では無力です。一人では幸せを感じることも難しい。だからこそ、あらためて人と人との「結びつき」「つながり」の大切さを多くの人が深く実感出来たのではないでしょうか。新たな生活様式や多様な価値観の広がり、そしてデジタル時代の到来。新しいテクノロジーや考え方を取り入れながら、その中でも『社会福祉』という変わらぬ使命を人々と共有するにはどうすればよいのか、これから私たちが考えねばならぬことは以前にもまして大きいと感じます。

少子化の流れ

昭和22~24年 第一次ベビーブーム
出生率4.32(2696638人)
昭和46~49年 第二次ベビーブーム
出生率2.14(2091983人)
平成元年 出生率1.57
エンゼルプラン(119万人)
平成12年 新エンゼルプラン(100万人)
平成17年 出生率1.26
平成27年 新制度(100万人切る)
平成30年 (921,000人)
令和3年 最低出生数(81.1万人)

さて現在の日本は、公的債務や財政問題、高齢化と社会保障など、多くの難題を抱えていますが、中でも重要なのが「急速な少子化」です。この3月17日、岸田首相の記者会見の文章を引用します。

「…我が国は歴史的転換点にあり、これを乗り越える最良の道は「人への投資」だと申し上げてきました。…その大切な「人」ですが、2022年の出生数は過去最少の79万9,700人となりました。僅か5年間で20万人近くも減少しています。2030年代に入ると、我が国の若年人口は現在の倍の速さで急速に減少することになります。このまま推移すると、我が国の経済社会は縮小し、社会保障制度や地域社会の維持が難しくなります。2030年代に入るまでのこれから6年から7年が、少子化傾向を反転できるかどうかのラストチャンスです。子どもは国の宝です。この国難に当たって、政策の内容・規模はもちろんのこと、社会全体の意識・構造を変えていく、そのような意味で、次元の異なる少子化対策を岸田政権の最重要課題として実現してまいります。…」

岸田首相の記者会見で語られたこの危機感、国難とまで表されたその思い、まさに我が意を得たり、です。

わが国では1970年代前半に200万人程度であった出生数が、2021年には約81万人に減少しています。この流れが継続すると今後10年程度で出生数が70万人を割り込む可能性もあり、2040年には60万人割れ、2052年には50万人割れとの推計もあります。人口減少を直ちに反転することはできませんが、少子化のトレンドの転換が遅れれば遅れるほど、人口減少は加速します。岸田首相が述べられたとおり、本当に今回が最後のチャンスかもしれず、政府は不退転の決意で頑張ってほしいと願います。

「子どもは国の宝なのだ」。半世紀以上も前、戦争に敗れ、戦後復興の日本の中で法人の創設者比嘉正子が同じ言葉を切々と訴えていたのを思い出されます。子育ては親だけが担うことだと思っていませんか? そうではありません。子どもを育てることは未来の日本を支える人材を育てることです。そのために未来への投資は今しかない。未来の支え手を育てるのに財源を惜しんではならない時です。子どもの成長を社会全体で支え、みんなで喜び合いましょう。社会の一人一人、みんなが主役なのです。私たち一人ひとりがそのように意識を変えていきましょう。もちろん、私たち法人も、皆さまが子どもを安心して育てられるように全力で支援を行う覚悟です。

最後になりましたが、都島友の会創立90周年にあたり、多くの皆様方から御厚志をいただきました。皆様方の貴重な御厚志は、法人の施設の維持と、更なる地域社会への取り組みに使わせていただきます。心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

私たちはこれからも、保護者の方、職員、そして地域の方々と共に子どもたちの成長を大切に見守っていきます。

沖縄本土復帰50周年に寄せて ~平和への祈念、思い新たに~
理事長 渡久地歌子

原稿を書いている今日、令和4年6月23日は「沖縄慰霊の日」にあたります。

糸満市の平和祈念公園で開かれた追悼式には岸田首相が出席され、「沖縄が世界の架け橋」となるよう取り組み「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」「世界の誰もが平和で心豊かに暮らせる世の中を実現するために不断の努力を重ねる」と誓われ、献花されました。

5月15日の沖縄復帰50周年記念式典には、天皇陛下も御所からオンラインで臨席され、「先の大戦で悲惨な地上戦の舞台となり、戦後も約27年間にわたり日本国の施政下から外れた沖縄は、日米両国の友好と信頼に基づき、50年前の今日、本土への復帰を果たしました。大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は「ぬちどぅたから」(命こそ宝)の思いを深められたと伺っていますが、その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いを致しつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます。」と述べられ、「沖縄には、今なお様々な課題が残されています。今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています。美しい海をはじめとする自然に恵まれ、豊かな歴史、伝統、文化を育んできた沖縄は、多くの魅力を有しています。沖縄の一層の発展と人々の幸せを祈り、式典に寄せる言葉といたします。」とお言葉を結ばれました。

戦中、戦後の沖縄の歴史を紐解いてみますと、1945年(昭和20年)4月、アメリカ軍が沖縄本土に上陸し、日本軍と激しいで地上戦が繰り広げられ、日本軍9万4136人、米軍1万2520人もの死者を出し、9万4000人以上もの沖縄の住民が帰らぬ人となりました。沖縄出身の軍人・軍属を含め、県民の4人に1人が亡くなったと言われています。

1945年8月15日に終戦、日本は敗戦国となった訳ですが、同年9月から1972年5月までの27年間、アメリカは沖縄を統治、米軍基地が次々つくられ、通貨はドル、車は左ハンドル、車は右側・人は左側通行などアメリカ統治下の時代が続きました。その間の時期を沖縄では「アメリカ世」と呼ぶそうです。

私事ですが、1969年(昭和44年)沖縄がまだアメリカ統治時代、私は沖縄の人と結婚し、年末から正月にかけて初めて沖縄へと帰省しました。その時はパスポートが必要でした。飛行機で行けば2~3時間のところ、船旅を経験したいということで、関西汽船の黒潮丸で1日半(33時間)かけての旅をしましたが、大変でした。船酔いはする、体力的にも厳しかったです。与論島を過ぎると税関(海港)職員が乗り込み、荷物チェックです。その物々しいこと、忘れられない記憶です。

1972年本土復帰後、日本政府は沖縄振興に力を注ぎ、道路拡張整備、公共の建物の建て替え、離島との架け橋等、インフラ整備が行われ、現在では観光リゾート施設や空港などの社会資本は充実発展していますが、天皇陛下のお言葉の通り、今も自然は豊かに残っています。那覇空港から2時間、3時間ぐらい行くと、最北端には辺戸岬、カルスト地域、大石林山があります。又、ヤンバルマングース森林等、太平洋と東シナ海がぶつかりあうキレイな海。海の底まで見える時もあります。天気の良い日は鹿児島県与論島や沖永良部島を眺望できます。また沖縄は世界に誇るべき伝統芸能があります。琉球舞踊、組踊、エイサー等は、昔から多くの人々に愛されてきた誇るべき文化です。

沖縄と法人の関わりについて

私たち法人と沖縄とのつながりについては、これまで再三述べてまいりましたように、法人の創設者 比嘉正子(旧姓 渡嘉敷周子)は沖縄に生まれ、17歳で那覇の教会の洗礼を受け、単身沖縄から大阪バプテスト女子神学校(現在ミード社会館)に入学。やがて大阪市立北市民館で館長志賀志那人先生からの薫陶を受け、社会福祉事業の道に入ります。1931年比嘉正子26歳の時、彼女の理想とする教育的要素と養護的要素を兼ね備えた〝子どもの館”『都島幼稚園』を創設、以来、戦前戦中戦後と現在に至る法人の礎を築いていきます。

1974年(昭和49年)には沖縄本土復帰記念事業として、自身の生誕の地、首里金城町に保育園を設立、旧姓渡嘉敷の「渡」を取り、渡保育園と名付けました。永らく故郷沖縄と離れ離れになっていた比嘉正子にとっては、まさに念願叶った思いだったことでしょう。1982年(昭和57年)には法人50周年記念事業として、那覇市民病院の近くに松島保育園を設立。こうして比嘉正子の社会福祉への思いはしっかりと故郷沖縄に受け継がれていくことになりました。

さて沖縄本土復帰50周年の記念すべき年に、現在、私たちは二つの大きな厄災に翻弄(ほんろう)されています。一つはこの3年間猛威をふるっているコロナ禍。そしてもう一つが本年3月に始まったウクライナ危機です。

昨年2021年、私たち法人は90周年を迎え、式典の準備までできておりましたが感染拡大のため執り行うことは叶いませんでした。しかしこの3年間、職員は法人施設の子どもたち、保護者、高齢者の皆さんをどう守るか、施設からは何としてもクラスターを出さないと一丸となって奮闘、頑張ってくれました。

一方、本年3月以来、私たちはロシアのウクライナ侵略を目の当たりにすることになり、戦争のむごさ暴力の残酷さを改めて目のあたりにすることになりました。

コロナ禍、ウクライナ危機、この二つの大きな厄災は今もなお終焉することなく、私たちの前に立ち塞がっています。本日「沖縄慰霊の日」に寄せて、あらためて平和の尊さ大切さを胸に刻み、誰もが平和で心豊かに暮らせる日が一日も早く戻ってきますように願わざるを得ません。

最後になりましたが、この4月29日、令和4年度の叙勲において、瑞宝双光章(児童福祉功労)を受章の栄誉に浴しましたところ、多くの皆様からご丁重なる祝詞お祝いをいただきました。誠にありがとうございます。今回の受章は私自身というより法人を代表していただいたものと考えております。今後も社会へのご恩返しのために些かなりとも努力を続ける心算です。

社会福祉法人都島友の会は100周年に向けて、地域の皆様とともに歩んでまいります。

7月30日(土)には帝国ホテルで、職員、地域関係者の皆様へ感謝を申し上げたく「お祝いと感謝のつどい」を開催、誠に身に余ることですが私も、〝ご相伴”に与らせていただきます。 地域に愛され、必要とされる社会福祉法人として、職員一同より一層力を入れてまいります。これからも温かいご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

コロナ再び急増 通天閣や太陽の塔にサインが灯った
~With コロナ、ポストコロナの時代の中で~

新型コロナウイルスの感染が中国の武漢市で確認されたのは昨年の12月のこと。それは当初隣国とはいえ、どこかまだ遠くに起こった出来事のようでした。しかし武漢から瞬く間に中国全土に広がり、突然予想もせぬ姿で私たちの前に現れました。

コロナウイルスとは発熱や上気道症状を引き起こすウイルスで、人に感染するものはこれまで6種類あり、そのうちの2つは中東呼吸器症候群(MERS)や重症急性呼吸器症候群(SARS)などの重症化傾向のある疾患の原因ウイルス、残り4種類のウイルスは、一般の風邪の原因の10~15%(流行期は35%)を占めます。(※国立感染症研究所)

そして今回出現したのが、人に感染する7つ目の『COVID|19』と言われる新型コロナウイルスです。

日本で最初に感染確認されたのが1月16日。やがてダイヤモンド・プリンセス号での大量感染に始まり、誰もがここまで影響が出ることを予期していなかった気が致します(私もそうでした)。

東京や大阪でクラスター感染が起こり、感染者数は急増、2月27日、安倍晋三首相が新型コロナウイルスの感染拡大防止を理由に全国全ての小中高校と特別支援学校について3月2日から春休みに入るまで臨時休校するよう要請。さらに4月7日には東京や大阪で爆発的な感染拡大や医療の崩壊を防ぐために外出自粛などの要請を徹底する特別措置法に基づく緊急事態宣言が発令され、4月16日には全都道府県に拡大しました。まさに未曽有の事態です。

感染の拡大や医療の崩壊を防ぐため、「外出の自粛」「イベント開催の自粛」可能な限り在宅勤務(テレワーク)、時差出勤、営業自粛、移動制限…。三つの密(密閉空間・密集場所・密接場面)を避ける暮らしのあり方は、これまでの生活を一変させました。今まで普通にできていたことが、今はできません。そして世界全体が重苦しいムードに包まれていきます。多くの国でロックダウンや外出自粛要請が出され、世界の人々は自由を失いました。東京オリンピックの延期をはじめ、日々行われていた文化行事や音楽活動が延期や中止となり、小中高、大学といった教育機関、そして多くの施設が一時閉館になり、保育施設の利用についても、家庭での対応可能な場合には可能な限り、利用の自粛要請が出ました。

しかし、医療従事者、警察や消防といった社会機能の基本機関と同様、私たち法人の各施設や、そこで働く職員は、社会経済活動の維持のため、迫りくる感染拡大のニュースを耳に、不安を押し殺し奮闘、子どもたちや高齢者、ともに働く仲間を守り、その中で平時の日常を保つために日々必死に仕事をしてきました。まさに、社会福祉、社会福祉法人としての社会的役割や使命、その重要性に光が当たり、その存在意義の重さが顕わになった瞬間でした。

5月25日、緊急事態宣言が解除されました。学校では分散登校が開始となり、企業や事業所も少しずつ活動を再開し、法人各園、各施設にも子どもたちが戻り、高齢者の皆様の姿が見えるようなって徐々に日常生活を取り戻すように見えました。しかし7月には再び感染者が急激に拡大、大阪では8月に入ると感染者数が急増、重症者も「第1波」のピークを上回り、過去最多となりました(8月16日現在)。猛暑と共に気が抜けない辛い日々が続きます。

現在の感染拡大がどのようになるか分かりませんが、ワクチンや特効薬といった予防、治療法が確立されていない現状において、今後も第2波、第3波が来る可能性は常にあり、しかも感染を防ぎながら経済を回していくという綱渡的な事態の中で、コロナと共にある社会、共存していく体制を続けねばならないと思います。

今回の新型コロナウイルスに奪われたものは数多くありますが、得たもの学んだものもあります。その一つは、ただ恐れるのではなく、「正しく恐れる」ということです。誰もが経験したことのない状況です。こういう時には世の中が感情論に満ち、フェイクニュースやデマに気をつけなければなりません。そういったものに騙されることなく、出来るだけ一次情報(ソースとなる論文、オフィシャルサイトの情報など)を探し、それを読むことで真実の情報を得るように努力することが重要です。例えば今回、厚生労働省ではインターネットで新型コロナの詳細なデータを公表しています。正しい情報を知り、伝える、という役割・学びを覚えていきましょう。そういう作業をしていると何が本質かが見えてきます。私たちも厚生労働省からの通達を軸に、対策をし、判断の基準としています。そのような正しい知識を得、理解していくこと、それが結果として、子どもたちや利用者、そして職員や仲間を守ることになります。

あるいはまた今回のことで自らの生活や仕事、世の中の在り方をあらためて振り返る機会を得たように感じます。新型コロナウイルスが流行する前(プレコロナ)と後(ポストコロナ)では、世界はどのように変化するのでしょうか? それに伴い私たちはこれからどのように考え行動すればいいのでしょうか? 新型コロナウイルスの出現によって世界の環境が大きく変わりました。例えば今まで当たり前のように会ったり集ったりしていたことがとても難しくなりました。私たちの関係する福祉、保育、教育分野でも大きな変化があるでしょう。人と人とのコミュニケーション、その重み、その意味も違ってくるのでないかと思います。新しい保育や介護のあり方も生まれ、あるいは今までやってきた私たちの保育や介護の大切さがいっそう見直されるのかもしれません。これからどう自分を生かすかを考える契機にもなるでしょうし、何を大切にすべきかを考える時なのかもしれません。皆さんもポストコロナの大きく変わった世界を想像してみてください。その中で自分はどのように生きていくのかを考えるのは、まさに今なのです。

理事長と年長児

令和に寄せて

2006年(平成18年6月)理事会で理事長選任を受け、仲田貞子前理事長より引き継ぎ今年で14年目になります。

私事を少し顧みますと

年表

時の流れは早いもので、本年3月1日で創立89年(令和2年)を迎え、来年2021年(令和3年)には90周年を迎えることになります。歴史が長いという事は、時代や日本の国の流れと共に歩んで来たという事、その間、本当にさまざまな出来事がありました。

昭和6年開園当初、日本は富国強兵を御旗に未曽有の戦争へと向かっていきました。戦争とはむごいものです。人心は乱れ、犠牲になるのはいつも子どもたちです。食べ物、着る物、住む所なく、親や家庭と離ればなれ、衛生面にも恵まれず……そのような環境下に置かれると子ども達の成長は大きな妨げを受けてしまいます。戦争が終わり、人々が自らの生活や国の再興をかけてがむしゃらに生きる中でも、多くの子どもたちがそこから取り残されていったのではないかと思います。

長い歳月、様々な社会の変化の中で、法人の諸先輩はいつも、「今一番必要とされるものは何か」「今、手を差し伸べられる事は何か」「都島友の会に出来ることは何か」を考え、私たちにできる事から始めていくこと、私たち一人ひとりができることをコツコツ行動し積み上げ、それを輪として広げていく|。そうしたことが都島友の会の伝統となっていきました。

歴史が古いという事はまた、その時々に建てた建造物が痛み、老朽化していくことでもあります。あるいはその反対に、その時代時代、明日の社会に求められるものを新たにつくっていくことでもあります。日本は自然災害の多い国です。近年も大きな地震や台風、豪雨と日本列島の被害は大変でした。この間、法人はその時々に整備や補修、大修理をし、時代に即した環境整備に力を注いでいきました。

待機児童問題、高齢化社会、障がい、制度から落ちこぼれた人々…。様々な課題があり、その中で私たちの出来る地域貢献とは?社会福祉法人の役割とは?と模索し、0歳から100歳以上の皆さん全てが憩える場所を作れないだろうか、人の誕生から終活まで、その営みの中で何か一つでも私たちに支えられる事がないかと行動し、法人で頑張る職員のために働きやすい職場とは何かを考え、そのための環境づくりに力を注いできました。

年表

振り返って、毎年、よくぞここまでやってきたなと思います。もちろん私一人で成し遂げられたものではありません。大勢の皆様に支えられ、ようやく今日までやってこれました。

法人や各施設の規模が大きくなるにつれ、幸いなことに適任者に恵まれ、職員はもちろん、保護者や子どもたち、ご家族、利用者の皆様、そして地域の方々にも恵まれました。法人運営を”つかさどる“本部、理事や評議員の方々、役員の皆様、経営会議、施設長会、副園長会、主任会、さつき会、比周会、保護者会、本当に強力なご支援を頂き、ここまでこれました。

創設者比嘉正子の教えの中に、

その1 「人生は出会う恩師(人々)によってきまる」

良き人々との出会いを大切にしなさいとの意味だと理解しています。そのあとにこんな言葉が続きます。

その2 「リーダーは淋しいものだよ」

その3 「リーダーは人に先んじて苦しみ、人に遅れて楽しむんだよ」

その4 「社会は豊富に、家庭は簡素に」

その5 「国家社会、人類の共同体の尊重。恨みつらみは、己を殺す」

昨今、ふと就寝前などにこれらの言葉が脳裏に浮かび、時に自らを戒め、自らに言い聞かせます。支援し、助けてくださる人々がいても、最終決断する怖さです。

最近、ある人との会話の中でこんな言葉を耳にすることがありました。

「お元気?」「元気そうで良かったわ」「お身体どうです」「心配していたのよ」「まあ嬉しい」「ようこそ」「あら、ごめんなさい」「無理なさらないで」「大丈夫、大丈夫、心配いらないわよ」「ありがとう」 「何でもいいから、できることからコツコツと」「できるでしょ、やればできるのよ、ほらね」なんと心地よい言葉でしょう。陽だまりにいるような会話でした。ホッと一息つけ、前に進めました。

時に楽しい決断もあります。今回、都島東保育園は『ひがみや児童センター』へと名称が変わり、『こども発達サポートステーションそれいゆ』と隣接併合して出来上がったった新たな建造物、その中の大ホールを私のイメージで作らせてもらいました。

ホールの中に大きな「がじゅまるの木」があり、木の中から動物たちが顔を出しています。木枝には小さな動物たちがハンモックに乗り、小鳥たちや虫たちが豊かな葉っぱの中から顔をのぞかせます。こぼれ落ちる光、その間から小さな花が、葉を揺らす風を感じる、すれあう音が聞こえる。鳥のさえずり、動物たちの話し声、何を話しているのかな。春になると花が咲き、かぐわしい匂いがする…。何の花かな、きれいねぇ、きれいでしょう、本当にきれい!

舞台に向かって左手(西側)を開けると、大きなトランポリンが、登り棒があり、南側(後)には、春夏秋冬に咲く花と実がなります。(サクランボ、ミカン等) 右手(東側)を開けると、小さな森の中にきのこのランチルームがあり、北側トイレには、白雪姫と小人さんたちが遊んでいます。1階、2階、3階、4階、ゆっくり歩いてみてください。いろいろな風景に出会えます。これは楽しい決断というより、子どもたちと大いに楽しみたいとわがままをさせて頂きました。新しくなった『ひがみや児童センター』『こども発達サポートステーションそれいゆ』の詳細は別紙で案内させて頂きます。

時代は移り社会は変遷してもやはり社会の抱える問題は後を絶たず、新たな問題、難問が生まれてくる…。だからこそ私たちに出来ること、その一つ一つに丁寧にコツコツ取り組んでまいります。

理事長