都島に根付いて90年 地域を愛して、地域に愛されてー。
理事長 渡久地歌子

社会福祉法人都島友の会は都島の地で誕生し、本年、創立90周年を迎えました。

私も理事長になって15年目。日々、諸事に追われながらも、同時に法人の行く末、社会福祉、地域福祉のあるべき姿を思い描きながら、「さて次はどうする」と考え、時に悩み、時に逡巡(しゅんじゅん)しつつ、やはり目の前にある課題に全力で取り組み、前に進むしかないと自ら奮励し今日を迎えたように思います。

世の中の流れも、グローバリズムや社会の構造変化、AI等のテクノロジーの進歩等々、年々変化のスピードは増し、直近では新型コロナウイルスによるパンデミックで世界中で多くの方が亡くなり、また多くの国で感染の抑制を目的とした渡航制限や外出制限等が実施されるなど、世界中が激変、今も予断を許さぬ状況が続いています。

日本も昨年より緊急事態宣言が繰り返し発令され、今年度より高齢者からのワクチン接種が始まりましたが、大阪府では8月20日で1回目45%2回目35%。20歳以下の接種はまだまだ回ってこない状況です(当法人は各園の嘱託医の先生方のご協力をいただき8月末日で関係者は2回目を90%終えました)。

政府は「感染拡大防止を最優先に……」としているが、何をどうするかの具体策が今一つ見えず、正直、中途半端でわかりにくい。一方、様々な指摘、批判を受けながら、1年遅れで東京オリンピック、パラリンピックを日本はどうにかこうにかやり終えました。(後にどう評価されるでしょうか?)

先のまだ見えぬこの国難、世界的危機ともいうべき状況も、医学や科学技術の進歩、人々の連帯や努力の結実により、必ずや人類は克服し、コロナ禍に打ち勝つだろうと私は信じています。そして現在苦境の中で立ちすくんでいる多くの人々も、この困難を乗り切り、再び立ち上がって元気に歩んで行かれることをお祈りするとともに、私たちに今できることがあるなら、微力ながら、最大限の支援をしていきたいと考えています。

さて、私たち法人も都島の地に根を下ろして90年。沖縄から、世の中のために働きたい、社会に貢献したいとの志と、身一つで大阪にやって来たうら若き女性、比嘉正子。幼少に受けたキリスト教的精神と恩師志賀志那人の導きで、この都島の地に、園舎もない青空保育園(幼稚園)を立ち上げ、多くの地域の方々や賛同者の力を借りて、先の大戦、大空襲、敗戦、そして愛する我が子の死と度重なる不幸を乗り越え、法人は創設者比嘉正子からつなぎつないで今日に至ったこと、その法人の歴史については、過去、法人の記念誌やホームページ、そして広報誌「ゆんたく都島」の中でも幾度も伝えてきました。まさに私たち法人の歩みは、都島と共にあり、地域の人々の力や支えがあってこそ、現在まで受け継がれてきたのだと思います。

今、ペンを走らせていると窓の外は大粒の雨音がしています。東京オリンピックが終わった後、追い打ちをかけるように日本列島西から東へ「線状降水帯」が居座り断続的な激しい雨が降り続いています。河川決壊、土石流災害、大洪水、田畑家屋浸水、濁流による災害、人的被害、大規模災害が起きている・・・。

思えば都島という地は、淀川に面し、太古の昔から大雨に洪水に悩まされた逸話が数多く残っています。洪水にみまわれ、橋が流され続ける中、河川改修、築堤工事、橋工事は明治時代から昭和40年代まで続き、水量を調節する閘門(こうもん)建設は明治29年から計画され、何年かを経て現在の毛馬閘門が出来ました。いわば自然災害との戦い、その中で苦闘し打ち勝ってきた記憶を色濃く残す土地だといえるでしょう。その大川の水路を活用し、紡績や製糸、製紙、製鉄産業の企業が集まり、それと共に中小企業、家内工場、働く労働者が集うようになりました。戦争による荒廃した時代を乗り越え、戦後になると雪印乳業、ミドリ十字、日本製紙などの会社やそれらに関わる人々が増え、さらに高度成長期を迎えると公害汚染等で大企業は移転、廃業になると、残った工場跡地は民間ディベロッパーによって大規模な街づくりへと発展し、いわば日本の大都市再開発の先鞭(せんべん)となり、医療施設、教育、文化の整った住みよい街へと変わっていきます。都島の歴史、それは日本の近代、そして現代にいたる日本の変遷、その写し鏡のようなものともいえるのかもしれません。

一方、都島は歴史文化の堆積した地域でもあります。毛馬には俳人、文人画で知られる与謝蕪村之生誕地の碑があります。大川沿いの中野町には[大阪市水道発祥之地]の碑があり、豊臣秀吉の時代、茶の湯に愛用したと伝えられている「青湾」の碑が残っています。時代をさかのぼり、後白河法皇が高野山への参詣の途中の地、善源寺村に聖母待賢門院(たいけんもんいん)の菩提寺として母恩寺を創建されました。代々皇女が住職をつとめる尼寺です。網島には近松門左衛門の浄瑠璃「心中天の網島」で有名な大長寺も残っています。さらに明治時代には網島一帯に藤田男爵邸があり、跡地には元大阪市市長公館、元太閤園があり、大阪迎賓館の役割を果たして来ましたが、今では跡地一部は公園、藤田美術館として残っている・・。都島にはこのように歴史を彩る豊かな史跡も数多く残っています。

川の橋が流されていた時代、大川沿いは梅の名所でありましたが、現在は桜並木が何㎞と続いています。春ともなれば染井吉野の桜が咲き乱れ、満開の花の終わりを飾る花吹雪は圧巻です。染井吉野桜に少し遅れて花をつける八重桜は大阪の風物詩の一つである「造幣局の通り抜け」です。夏には大川をいっぱいに埋め尽くす天神祭りの祭礼船、夜にはかがり火や電飾の船が行き交い、夜空を彩る大花火。大阪浪花のそして都島の大川の歴史の彩りとしてこれからも輝き続ける都島です。※(都島区歴史の彩り 西出達郎氏史料より)

都島の地に種を蒔き、ここで根付き、この地域と共に、この地域で暮らす人々に支えられ、共に歩んできた都島友の会。過去の度重なる苦難や危機を乗り切り、ようやく辿り着いた現在のこの美しく輝く都島の姿を私たちは心より大切にしたいと思います。そして次代の都島が今よりももっともっと魅力ある街になるように、私たち都島友の会は、子どもからお年寄り、障がいを持つ方、さまざまな方が、誰もが安心していきいきと快適に暮らせる街になることを目指し、これからも地域の皆様と共に手を携え歩んでまいります。

法人本部の役割 この10年
本部事務局長 寄瀬博光

社会福祉法人都島友の会の運営は、理事長が法人を代表して、理事会の意思決定に基づき業務を執行するとともに、日常的な業務を専決しています。そして、法人全体や児童施設、高齢者施設などの業務を、計画的に進行管理する部署として、理事長のもと、法人本部事務局を設置しています。

本部事務局では、経営課題や事業運営上の課題についての情報を収集・分析し、理事会・評議員会に諮る経営企画に関する業務と、各施設の経理・給与・社会保険事務などを集約処理する総務事務を行っています。

定款や諸規程を遵守し、適正な業務執行に努めるとともに、安定的な財務基盤の確立、透明性の高い財務管理など、本部業務を推進しています。

この10年間は、国における少子化対策の総合的な推進をはじめ、医療・福祉サービス改革が進展する中で、福祉関連の法改正が相次ぎました。本部事務局は社会福祉法改正に伴う新定款や関連する規程整備とともに、新制度の実施にあたり、各施設と準備や事業調整を推進しました。

【法・制度改正】

平成24年4月に、障害者自立支援法及び児童福祉法が改正され、都島こども園が、知的障がい児通園施設から児童発達支援センターとなり、第二種社会福祉事業に位置付けられたため、定款を一部変更しました。

平成24年8月、子ども・子育て支援法が公布、平成27年4月に子ども・子育て関連3法が施行され、「子ども・子育て支援新制度」がスタート。都島児童センター、友渕児童センター(都島友渕保育園)、成育児童センター(成育保育園)が幼保連携型認定こども園として移行、その他は、新制度での保育所として再出発しました。移行のため、本部事務局は関係先との協議をはじめ、申請・定款変更など、各園とともに約1年半にわたり準備を進めました。

なお増築・改修工事を終えた桜宮児童センター(都島桜宮保育園)は平成31年4月、建替新築工事が完了したひがみや児童センター(都島東保育園)は令和3年4月に、幼保連携型認定こども園へ移行しました。

 

平成27年4月の介護保険法の改正により、特別養護老人ホーム「ひまわりの郷」の新規入居者は、要介護3以上の高齢者に限定されることとなりました。

また社会福祉法人全体の財務状況を明らかにするとともに、経営分析に対応、また情報公開に資するため、国において、新たに社会福祉法人会計基準が定められました。本部事務局は、説明会参加、経理規程整備、情報公開などの準備を進め、平成27年4月から、新会計基準による経理事務へ移行しました。また平成29年度から、現況報告書、計算書類、定款・役員名簿、報酬等の支給の基準などを公表しています。

令和元年10月には、3歳以上の幼児教育・保育料が無償化となりました。

●新しいガバナンス体制がスタート

社会福祉法人制度改革が進められ、平成29年4月1日に、経営組織のガバナンスの強化などを主な内容とする「改正社会福祉法」が施行されました。

経営組織として、議決機関としての評議員会が必置となり、業務執行機関としての理事会、業務執行の監査を行う監事が位置付けられました。また理事・監事の義務と責任が、法律上規定されました。

本部事務局は、改正に伴う新定款及び関連する、職務権限規程、役員報酬規程、旅費規則、評議員選任・解任委員会規則などの規程の整備と改正など準備を進めました。新定款は、平成29年2月6日付で大阪府より認可。

この新定款に基づく評議員選任・解任委員会を3月15日に開催し、平成29年4月1日に就任する新評議員8名を選任。また6月16日に評議員会が開催され、新役員(理事7名・監事2名)が選任され、改正法に基づく新しいガバナンス体制がスタートしました。

令和元年6月には評議員1名を選任し9名に、また法人創立90周年を迎え、業務執行体制の充実のため、理事1名増員し8名となりました。

新定款のもと、評議員会は、事業計画及び収支予算、計算書類及び財産目録の承認ほか報告のため、また理事会は、業務執行の決定にあたり臨機応変に開催され、都島友の会の適正・円滑な運営に尽力しています。

建替新築・大規模修繕

法人の各施設は、建物・設備が経年劣化による建替や環境向上のための改修工事が必要となり、90周年に向け順次、実施しました。

  • 都島児童センター(都島保育所)
    • 平成24年7月に旧園舎の解体に着手、平成25年9月に新園舎が完成。平成25年9月1日付で都島児童センターと名称変更。
  • 桜宮児童センター(都島桜宮保育園)
    • 平成29年1月1日に分園を整備・開園。本園の増築・改修工事は、平成29年7月に着手し、翌年3月に増築改修が完成。
  • ひがみや児童センター(都島東保育園)及びこども発達サポートステーションそれいゆ
    • 平成28年4月1日に、大阪市から都島東保育園(複合施設)の建物を有償により取得。
    • 平成30年11月に建替工事に着手、令和元年12月に両施設の新園舎が竣工。都島東保育園は令和2年1月1日、ひがみや児童センターに名称変更し業務を開始。
  • 都島乳児保育センター
    • 平成30年7月に建替用地取得。令和元年8月に建替新築工事着手、令和2年4月竣工。
  • 都島第二乳児保育センター
    • 令和元年度に外壁等の改修、玄関前リニューアル工事、保育室等内部改修工事。令和2年度に厨房改修・会議室等を整備。
  • 友渕児童センター
    • 平成24年12月に増改築工事。平成26年度に幼保連携型認定こども園移行に向け屋外階段を設置。平成30年4月~6月に、建物全体のリフレッシュ工事。
  • 都島友渕乳児保育センター
    • 平成30年度に厨房改修工事を実施。
  • 特別養護老人ホームひまわりの郷
    • 平成28年度、環境省補助金を活用し空調設備を更新。平成29年度に大浴場の供用を廃止し特殊浴槽を設置。平成30年度には施設改修と地域交流の場カフェテリアひまわりを設置。
  • デイサービスひまわり
    • 平成28年度に大規模リニューアルし、利用スペースを拡大。
  • 比嘉正子地域貢献事業研修センター
    • 戦後70周年の平成27年8月、比嘉正子資料室を整備。

法人創立90周年を迎えて
理事長 渡久地歌子

都島友の会は本年、創立90周年を迎えます。

昨年来、世界に蔓延するコロナ禍、幸いなことにワクチンが開発、接種が始められたとはいえ、今後どのような推移をたどるかはまだ分かりません。その意味では日本はいまだ国難の中にあるといえます。

法人の歴史、90年という長い時を思い起こせば現在のコロナ禍に比する、いやそれ以上の困難な出来事は多々ありました。1930年代の世界大恐慌、太平洋戦争、大阪大空襲による園舎の全焼、終戦、そして戦後の混乱…。これまで幾度も紹介したと思いますが、法人の創設者、比嘉正子はいわば20世紀という戦争と波乱の時代を艱難辛苦の末、乗り越え、生涯のテーマであった社会福祉の理想と共に駆け抜けてきた人物だったと思います。そして彼女の思い描いた福祉理念は、現在の都島友の会の中にも受け継がれて来ています。

1905年

沖縄で誕生

幼き頃通った日曜学校で巡りあった永田ツル子園長、ミス・ミード、上原カメ先輩たちと直接的、間接的にも人生の出会いが始まる
1923年

大阪ミード神学校へ入学(17歳)

大阪市立北市民館へ出入りするうち、志賀志那人館長と出会う
1926年

北市民館保育組合の保母となる(20歳)

1928年

結婚を機に退職(23歳)

(その後、3名の子に恵まれる)
1931年

志賀先生より都島で、幼稚園を作るよう指示を受ける(26歳)

園舎なき青空保育園から都島幼稚園へと。福祉的幼稚園の始まり
母の会、同園会、自主的に委員会から園庭設備、運営の支援を受ける
この頃の日本は中国との武力紛争、満州事変などにより、戦時色が強まる中ではあったが、園児数は増えていく
1944年

1月、2月、病気で愛児(長女・長男)を相次いで亡くす

1945年

大阪府より幼稚園の閉鎖命令。3月7日戦前最後の卒園式(45歳)

8月広島、長崎に原爆が投下され、太平洋戦争終結
日本の敗戦となる。大阪も大空襲に遭い、都島も焼け野原となり園舎も焼ける
1949年

大阪府より保育の復旧指令

敗戦により日本の人々は、亡くしたもの新しきものの目まぐるしい変化の中で生きていく
新憲法に基づき福祉の見直しの中、家庭を守る女性たち、主婦たちと共に乳幼児施設、保育所、病院づくりへと歩み出し、その活動は43年後(88歳)まで続きました

縁は異なもの~比嘉正子との出会い、恩人たちとの出会い~

比嘉先生(あえて当時の呼び方でそう書かせてもらいます)との出会いは、ほんの偶然のようなものでした。人からの紹介があり、訳も分からないうちに、「家に来なさい!」(当時比嘉先生のお家にはご主人と二人きりでした)と比嘉先生の家に住むことになり、4、5カ月が経って大阪にも慣れた頃、都島診療所(都島病院)を手伝いなさいということで今度は寮に入り、診療所に勤めることにー。

都島診療所は戦後、比嘉正子が敗戦後の荒れた社会の中で、病は無知や貧困が病魔を広げるとのことから、子どもたちや家庭、主婦を守っていくため立ち上げた低所得者支援のための病院でした。一時労働争議で閉鎖したのですが、診療所として再開していました。

1951年

低所得者支援 都島病院開設

1956年

社会情勢の渦の中、福祉理念における職員間との相違、労働争議で閉鎖

1960年

生命を守る信念はまだ残っており、建物を都島診療所として一部復活

1962年

比嘉正子との出会いから都島診療所職員として勤務することになる

診療所では何でもしました。受付、会計、薬局、看護婦、給食、掃除などの手伝い…、すべてが知らないことばかり、そしてすべてが目新しく面白い。私にとっては、「なるほど!なるほど!」の学びの世界でありました。もちろん知らないことだらけでしたから、一つ一つ説明を聞くことだけで精一杯。毎日、院長先生に叱られながら「そうなんだ…」の世界で、他の人たちから「大変だなー」と同情され、泣きもしたが、今振り返ると、叱る院長も大変だったことは後にしてわかる。この時の慰めは唯一、幼友だちの「元気か?頑張っているか?」とのさりげない言葉。時折、顔を見せてくれたり、電話や手紙をくれたり…。懐かしい思い出です。病院の院長(勤務医)と比嘉先生が、立場の違いからぶつかり、難しい問題も起きました。その際、阪大の第一内科、整形外科の先生方にお願いに伺ったりもしました。その頃の出会いが50年、60年経た現在も続いているのも不思議なご縁です。

やがてカルテ整理、レセプト請求、治療内容や薬品名、病名も覚え、衛生管理(清潔、不潔)、消毒など、どんどん出来ることが増えていきました。保険の有無等から患者さんの社会的立場や生活状況を知り、都島保健所、都島区役所の国民保険係、福祉事務所、住民係とつながり、さまざまに教えてもらうことも多かったです。

道端で行き倒れた住所のない人たちの処遇をどうするか。入院では誰が保証人となる?退院後は? 治療費の問題、医療券という制度、そこから民生委員さんとの接点、大阪自彊館(ジキョウカン)とのつながり、住宅問題から市営住宅や府営住宅の申請手続きも覚えました。低所得者支援の病院とはいえ、収入と支出のあり方、職員処遇や医療整備の問題…。善意や理想だけでは成り立たない現実を知り、『経営』というものの大切さを学びました。患者さんを通じて学んだことも│。患者さんが玄関に入ってこられると一人ひとり名前が浮かぶ。人様の名前を覚えることが得意である事が功を奏し、親しくもなっていった。カルテを出し、「どうされましたか?」「お大事になさってください」の声掛けににっこりと笑みを返していただいた。外でお会いしても挨拶することを大事にしてきた。挨拶や他愛のない会話…、それが人と人との、地域の皆さんとのつながりを大切にすることにも繋がっていきました。

そうした病院での経験や医療への関わりを通して、自分が困難な人に差し延べられること出来ることは何かを考える糸口になり、乳幼児から高齢者、地域の皆さん、職員、様々な方々への向き合い方、対し方の礎となり、その中で育まれた思いが、私の「福祉」に対する原点になったように思います。

1968年

病院建替担当

(建替えることについて何も知らされず)
1969年

都島病院新築

病院経営には諸々の届け出、資格が必要。都島保健所、大阪府庁へ日参したものだ。

9月結婚

1970年

7月、長男出産

9月、生後1ヶ月の我が子を都島乳児保育センター保育室に預け、事務所勤務となる

 

福祉の道、保育の世界に入る

昭和40年代以降、女性の社会進出が増え、しかし0歳児保育はまだ行われていない時代、法人は国の実験的開拓事業として先駆的に0歳児保育を行っていました。1970年9月、国の監査を受け、乳児特別対策費として保母加算がつくか否かの瀬戸際、当時病院から保育所事務に移った私は保育所の収支業務が解らず、先輩の先生たちの指導で何とか無事監査を終えることができました。その頃は乳児室にわが子を送り届け、事務所勤務をしながら園長や主任保母の手伝いをし、保育のあれこれを学んでいた毎日でした。中でも印象深かったのが0歳児の我が子を「措置児??」と呼ばれる違和感。社会福祉の措置委託制度ではそう呼ばれるのですが、そこから措置制度の意義や必要性、措置費の仕組みや内容の勉強を始めました。

比嘉先生は保育に関して(職員や子どもたち、保護者に向けて)一番良いものを提供することが地域貢献であることを旨とされていました。保護者の肩の荷を一つでもおろすにはどうすれば? おしめや布団はどうする?など、私にも一つひとつ保護者の労力を軽減するための細やかなアイデアを求められます。その際、同年齢の保護者に意見を聞き、会話を重ね、親しい関係が作られていきました。現在の”ママ友“になるのでしょうか、その頃、共に会話を重ね、子どもを育てていた人たちとのつながりは、50年経った今も私の宝ものになっています。

労使対立の時代、園長へ。そして法人経営の道にー。

1973年

建設担当をした都島病院が経営困難により閉鎖

その建物を乳児保育待機児解消のために都島第二乳児保育センター開設。改修工事担当を兼ね
1976年

都島児童センター勤務。法人の幼児保育、障がい児保育、学童保育を学びながら、保育施設の運営に携わる

当時の日本は左翼運動が激しく労使関係も緊張をはらんだ時代でした。都島第二乳児保育センターでも、職員一名、あまりにも勤務態度が悪く退職してもらった。2カ月後、その職員が労働組合に駆け込み、軽頸腕症候群、腰痛など職業病を訴え、労使紛争が起こりました。組合との団交、裁判などで3年間、保育業務は空白となり、その間、労務の勉強、裁判資料やその書類作り、弁護士との話し合いなど、子どもを寝かした後、徹夜もしばしばといった毎日を送ることになります。

また法人では保育施設が増加拡大し、環境整備等の整理を行う中で、保育内容、職員採用、職員処遇、経理など法人としての統一化を図らねばならず、そこから各施設長との軋轢も生じ、様々な非難を浴びましたが、何とかそれを乗り越え、法人の組織強化や現在の法人本部へとつながる基礎作りを進めていきました。

1981年

鐘紡(株)の跡、日本住宅公団の友渕街づくり事業の一つ、保育所新設を受け、建設担当を受ける

1983年

都島友渕保育園園長に就く

友渕地域の高層住宅街に新設された保育園での園長就任は私のこれまでの経験や学び、その一つひとつを積み上げていくようなものになりました。その一つが子どもの主体性を大切にする保育への見直し。子どもに”させる“から子どもが”する“への転換でした。園長をつとめた間、都島友渕保育園は街の発展と共に園児数も70名→90名→120名→150名と増え、園舎も増改築していきます。(この10年間は、一番穏やかで楽しい日々であった。今はその時育った子どもたちが親になって帰ってきてくれている)。

 

1984年 園長兼、法人理事を受ける

組織も大きくなり、理事の先生方の強力なバックアップで法人経営を学ぶ。

1990年 大阪市はJR桜ノ宮駅近く国鉄貨物駅跡を、医療、保育、高齢者施設を備えた新しい街として開発。当法人がその保育部門を受けもつことになり、建設担当を命じられる

1991年 都島桜宮保育園園長を兼ねる 比嘉理事長(87歳)は高齢のため体調不良。仲田貞子理事長代行の補佐を担う

1992年 11月、比嘉理事長逝去。仲田貞子2代目理事長就任。

1993年 都島児童センター園長兼常務理事に就く

創設者を亡くした混乱は予想以上に大きく、混乱が収まるのに、数年かかった。(人間関係、考えの違い、裁判etc) 様々な方々に助けて頂きながら、一年一年を乗り越えた。 都島友渕乳児保育センター開設。

1999年 友渕地域デイサービス開設。 土地は鐘紡(株) が大阪市へ寄付。措置制度による開設であった。都島区連合会長はじめ、皆さんの力強い支援を受ける。

2001年 高齢施設建設計画 大阪市へのプレゼンテーションを経験

2002年 東都島地域、西都島地域役員の皆さんのバックアップもあり、「特別養護老人ホーム ひまわりの郷」開設。入居者は大阪市全域からであったが、都島で生まれ育った人々が法人による高齢施設を待ち望んでおられ、入居者の中には昭和6年の青空保育に携わった方々もおられた。

2006年 仲田貞子理事長、体調不良により、3代目理事長職を受ける

2007年 理事長に就任後、法人の保育、高齢施設の見直しと、指示系統を一本化できる法人全体の新しい組織作りに着手。またリスクマネジメント、乳幼児の教育保育、障がい児発達支援、高齢者介護、看護師会など各専門委員会を設置、施設ごとの垣根を超えた自主的な学びやまとめが出来るようになった。また法人全体での職員研修の開始、ホームページの制作や広報誌(ゆんたく都島)発刊など、法人全体の広報に力を入れる。

2011年~2021年 80周年終了後、本部が中心となり、都島児童センター建替、隣接土地の購入、友渕児童センター増改築(№1)、ひまわりネット(子育て、障がい、介護何でも相談室)開設、城東区に成育児童センター開園、大阪市より都島東保育園建物取得、都島桜宮保育園増改築、友渕児童センター園舎改修(№2)、都島児童センター運動場用地購入、特養の全館改修、および地域交流のためのひまわりカフェの併設、都島第二乳児保育センター園舎改修、ひがみや児童センター・それいゆ新園舎建設、都島乳児保育センター新園舎など、次々と90周年に向けて、大きな環境整備を計画、逐次、行っていきました。

またリクルート対策や職員の働き方改革、変形制労働時間制の採用、保育内容の充実、保育ママ事業、つどいの広場、居宅介護支援にも着手し、かねてから政府がおし進めていた日本の幼児教育改革、幼保一元化の政策に合わせて、都島、友渕、桜宮、成育、都島東(現在:ひがみや)各保育園がそれぞれ幼保連携型認定こども園へ移行していきます。保育園との名前はついていましたが法人の原点である教育と保育を両輪としてきた福祉的幼稚園の姿に戻ったのだと思います。その間、都島児童センター竣工一周年記念には下村博文文部科学大臣(当時)講演会を開催、ひまわりネットは比嘉正子地域貢献事業研修センターとして発展的に生まれ変わり、職員たちの自主研究は日本保育協会から実践奨励賞を受賞するなど、自慢したくなることもありました。

2021年 人々に、地域に、感謝を込めた90周年へ

法人の90年、その中で私の半生ともいうべき法人とのかかわり、その中での私の想い、行ってきたこと感じてきたことを駆け足で書いてきました。もちろん書き足りないことだらけです。ただこうして振り返れば、よくぞここまでやってきたなと思います。もちろん私一人で成し遂げられたものではありません。比嘉先生、仲田先生、多くの方々との出会いや教え、大勢の皆様に支えられ、助けがあったからこそ成し得たことばかりです。私も喜寿を迎え、体力も衰え、コンピュータ化、AIなど分からないことだらけ…、どんどん私の能力ではついていけなくなってきた。しかし幸いなことに良き人材に恵まれ、理事、評議員、その他役員の皆様、職員はもちろん、保護者、ご家族、利用者の皆様、そして地域の方々、多くの法人を支える人たちの力で、法人はお陰様で無事90年を迎えることが出来そうです。

この秋には90周年を祝う式典や行事も計画しております。その際には、法人がこの地で、都島の人たちに支えられ社会福祉の道を歩みだした原点に立ち返り、今後法人がよりいっそう地域貢献できる法人となるよう、その誓いと決意と共に、地域や地域の方々への感謝を込めたものにしたいと考えております。”つなぎつないで“、今度は100周年へ。そのスタートは人々への心からの感謝から始めたいと思います。

地域を支え、地域とともに生きる
本部事務局長 寄瀬博光

都島とのご縁

私は大阪市職員として36年間のうち32年間を、大阪市の広報(PR)・イベント関係の業務と、病院経営の業務に従事した。行政職の公務員としては異色の経歴である。しかし、常に新しい事業との巡り合わせと、チャレンジであった。

平成25年5月から、法人本部事務局にお世話になっている。都島とのご縁は、平成2年から、市立総合医療センターの建設に2年6か月、管理運営に延べ6年、計8年6か月。そして都島区役所に4年。この間、都島の街を知り、歴史を知り、多くの地域の皆さんと知己を得た。36年間の3分の1、12年6か月を都島の地で仕事をしてきたことが、地域の社会福祉を支える都島友の会に繋がったのではないかと思っている。

都島友の会の印象

都島友の会に就職して8年近くなるが、当初より感心していることは、90年になる永い歴史と伝統の上に立ち、地域の皆さんの信頼をいただきながら、都島の社会福祉をリードしてきていることに尽きる。

それは、都島友の会の事業を具体化する職員の熱意と、スキルの高さから来るものであると思うのである。各園が平成27年から毎年、提出した保育実践研究・報告は、日本保育協会から奨励研究賞や奨励賞を受賞するなど、高い評価を受けている。また保育者としての知識・技量だけでなく、日々の研鑽と周到な準備を怠らないことは、ふれあい運動会・生活発表会等での子どもたちの演技に対する保護者の皆さんの感動を見ていると、よく理解できる。

もうひとつ、都島友の会は社会福祉法人としての使命を果たすべく、それぞれの時代の要請に応じて先進的な取組みを行ってきたことである。近年では、比嘉正子地域貢献事業研修センター「ひまわりネット」の開設がその例である。

社会環境が大きく変化した、福祉ニーズが多様化・複雑化したといわれるが、その実態を肌で感じるのが現場である。目の前のことにいかに対応していくのか、情勢の変化を受け止め、どのように対応するのが適切なのかが常に求められている。都島友の会が持つ経験とノウハウにより、行政にはない役割を果たしている。このことがより一層地域の信頼をいただき、結びつきを強くしていると確信している。

法人本部事務局での業務

都島友の会は、児童施設(13)・高齢者施設(2)ほか、収益事業・独自事業を運営する大規模な社会福祉法人であり、本部事務局が設置されている。理事会の意思決定に基づき、法人全体や各事業の計画的な進行管理を行っている。経営課題や事業運営上の課題についての情報を収集・分析し、理事会・評議員会などに諮る経営企画業務と、各施設の経理・給与・社会保険事務などを集約処理する総務事務を担っている。

私は、永年の病院経営の経験はあるが、社会福祉について行政的な知識は持っているものの、実践については素人である。本部職員や各施設長のお助けをいただきながら、何とか実務を遂行してきた。

8年間の中、平成27年4月に子ども子育て支援新制度がスタート、介護保険法の改正、社会福祉法人新会計経理事務への移行、また平成29年4月には改正社会福祉法の施行などがあり、次々と変革の嵐が吹いていた。

このことが、私にとっては幸いなことであった。これまでの事業内容とともに、新た制度について、一から勉強するまたとないチャンスであったように思う。子ども子育て支援新制度では、幼保連携型認定こども園への移行準備をはじめ、保育園ほか児童施設の運営規程を整備したことが、以後の業務理解に寄与したと思う。

改正福祉法の施行は、社会福祉法人のあり方に大きな変化をもたらすこととなった。

都島友の会でも、法人の憲法ともいうべき新定款の作成・認可とともに、関連して評議員選任解任委員会規則など新規程の整備、経理規程の改正等を行った。また新定款に基づく新評議員、新役員の選任という体制づくりがなされたところである。

このような新制度や改革に関与することを通じて、社会福祉の実践について、少しは理解が深まったのではないかと考える。

90周年に向けて施設整備

法人の各施設は、経年劣化のため建替えや環境向上のためを整備が、ここ10年の課題であった。都島児童センターが平成25年9月に建替新築が竣工した後、平成30年3月に桜宮児童センターの増築及び大改修工事、6月に友渕児童センター園舎改修工事が完了した。

ひがみや児童センター・こども発達サポートステーションそれいゆの建物は、大阪市から有償にて取得の後、平成30年度に建替新築工事に着手し、令和元年12月に完成した。令和2年4月には、都島乳児保育センターが都島児童センター近隣に移転新築。都島第二乳児保育センターは令和元年~2年度で改修工事を完了した。また特別養護老人ホームひまわりの郷では、平成30年度に施設改修及び地域交流の場としても利用していただく「カフェテリアひまわり」を設置した。

相次ぐ整備のため、事務局は申請事務、設計業者との協議、工事入札・施工管理等、毎年のごとく業務に追われたことになったが、これから10年、20年、30年と将来を見据えた子どもたちや利用者にとって、安全で快適な環境整備がなされたと考えている。

これからの都島友の会

初代理事長比嘉正子先生が創設した都島友の会は、先生の地域福祉にかける熱い思いを体現すべく、繋ぎ繋いで、ここ都島の地で地域の皆様とともに歩んできた。

近年、様々なジャンルの方が、この福祉サービスの分野に参入してきている。競争の時代、選ばれる時代となってきたともいえる。

90周年を迎えた都島友の会が引続き100周年に向け、これからも地域福祉の雄として、地域の皆様の信頼を得続けるためには、職員一人一人が福祉の心をもち、子どもたちの未来や利用者、地域の幸せ実現のため、努力を惜しんではならない。そして都島友の会ならではの福祉サービスを提供することが必要であると思う。とりわけ施設を管理する立場にあっては、率先垂範した行動をお願いするものである。

私は、縁あって都島の地で併せて20年近く仕事をさせていただいている。都島を愛する一人として及ばずながら、職員の皆様のお力添えをしてまいりたいと思う。