ペインティングをする児童  昭和40年代前半までは、障がい児は各家庭で隔離状態であったり、公的対策のないまま放置されていたのが現実でした。障がいのある子どもを抱えた親達の、組織による総合保育への要求、保育所整備運動の活発さに比べ、知的障がい児など障がい児対策は完全に立ち遅れていました。
 昭和47年度、大阪市は他に先駆けて、障がい児保育の助成制度を出発させたのです。予算総額400万円、総定員25人、補助内容は障がい児5人に対して保母一人の加配方式でした。助成制度の窓口は障がい福祉課であり、この時の実施施設は民間保育所4施設です。大阪市の先見性を持った処置として充分に評価されてよいことでしょう。
 この4施設の障がい児保育の開始は、障がいのある子どもを抱えた親達に予想以上の反響を与えましたので、大阪市も自信を得、あくる年には予算を900万円に倍増、定員50名で5カ園を指定しました。この機を逃さず、比嘉正子は、都島児童センターに身障児療育園を新設しています。これらの先駆的な実施園の熱心な運動により、49年には子ども4人に保母一人へと加配条件が改善されました。
 全国的にも障がい児保育がクローズアップされ、昭和49年12月、厚生省から「障がい児保育事業の実施について」の通達が出されました。しかし、この対象児、おおむね4歳以上の集団保育可能な軽度障がい児でした。そこで大阪市は児童福祉審議会において、「障がい児は障がいの種類や症状が多種多様であるだけに、家庭でその子の心身の発達を適切に援助することが厳しい。障がい児の場合は“保育に欠ける”という措置要件の範疇として考慮されるべきである」と前進的な解釈の答申を出しています。
 昭和51年には大阪市の経営委託を受けて、都島こども園を開設、身障児30名を保育し、都島東保育園へは知的発達遅滞児を受け入れて、障がい児保育を進めていきました。比嘉正子の児童福祉への情熱、社会を広い視野で眺め課題を見出す先見性、素早い行動力には、ただ敬服あるのみです。

「比嘉正子の生涯史」大阪福祉行政と都島友の会の狭間に生きた故比嘉先生 川原佐公 著(P79)