その生涯を言行録とその背景から探る
プロローグ
「・・・私は沖縄に生まれた。そして、私の父は官吏志望だったのである。しかし、それに挫折した私の父は、アワモリの製造をしたり、畑に出たりして生計を立てていた。当時、沖縄からは多くの人が外国へ移民していった。その関係からか、外国の人から沖縄に来る外国文字の手紙が多かったのである。官吏志望で、しかも士族の出身であった私の父は、村の人宛のそのような手紙を解明してやったりしていたのである。こういう父の、村の人たちに対する善意、いわばヒューマニズムの精神が、今こうして振り返ってみると、私の現在を支える大きな要因になっているようである。社会のために働きたい、社会に貢献したい、という私の現在を、である。
第一部 その人の人生は出会う恩師によって決まる
沖縄時代
1905年3月5日 | 沖縄県首里市金城町に渡嘉敷宗重氏の四女として生まれる。 |
1921年3月 | 首里市立女子工芸学校(県立首里高等学校の前身)卒業 その後1年間、沖縄県宮古郡西原小学校代用教員 |
1922年 | 17歳の時、洗礼。首里バプテスト教会に通う。 首里バプテスト教会牧師、 東恩納と伝道師兼愛隣幼稚園園長永田つる子より薫陶を受ける。 |
「正子は、士族であることを大変誇りに思っておりました。正子の父親は士族の商法であれこれと商売をし、そのどれもが上手くいかなかった人ですが、正子は父親をとても尊敬しておりました。」 「正子が幼い頃、父親が一時酒造りをしていて、酒かすが干してありました。餓鬼大将であった正子は、近所の子供たちを集め、「酒かすを食べさせてあげるから、私のいうことを聞きなさい」といって、みんなを子分にしたそうです。長じてからも、そんな性格は続き、沖縄県に野球の球団が来ると旗を作って皆に持たせ、みんなを従えて応援に繰り込み、ちぎれるほど旗を振って応援したそうです。このように、比嘉正子は女の子だけれども大分、暴れん坊だったようです。」
「比嘉正子が幼い時、母親が三人変わったそうです。そのために肉親の愛情が薄く、家庭的に恵まれなかったようです。家庭についての話を正子はしたがりません。ですから三人の母親についても、死別なのか、生き別れなのか、娘である私も聞いたことがないのです。」
写真:前列右から2人目 比嘉正子(旧姓渡嘉敷周子)
大阪、女子神学校時代
1923年 | 大阪十三今里バプテスト女子神学校 (太平洋戦争中廃校、現在のミード社会館)に入学。18歳 ◆校長 ミス・ミード (一生涯を日本の女子教育とキリストの伝道に捧げた)の影響 バプテスト女子神学校3年生の言葉 「社会的な不平等と貧困がある限り、人間は救われない」と煩悶する。 |
1925年3月 | 大阪十三今里にあったバプテスト女子神学校修了 |
「『パブテスト女子神学校』(現在のミード社会館)は、文化的ですがすがしく、清楚な感じのする学校であった。私はミッションの経費でまかなわれる留学生として、寄宿舎で三年間生活した。バイブルを勉強の基礎とし、講義や実習はきびしかったが、校長、教頭をはじめ多くの教授たちは極めてヒューマンで、日常生活の中に自由と笑いとユーモアがあふれていた。男子のバイブルクラスもあり、交際も自由、コーラスやテニスも出来て、私の性格にはうってつけの楽しい学園であった。私の人間形成は、この時期に、この環境でなされたと思う。」
写真:2列目左から3人目 比嘉正子(旧姓渡嘉敷周子)
キリスト教会の伝道師の道から社会事業の道へ
1926年4月 | 日本におけるセツルメント第1号として有名な大阪市立北市民館 保育組合の保母となり、当時の北市民館長 志賀志那人先生と出会う。 |
1927年 秋 | 結婚 保育組合退職 |
1929年 | 大阪市東淀川区菅原幼稚園の主任保母 |
私は裸になって飛び込もうと決心した。
大阪市立北市民館館長 志賀志那人先生との出会い
「情熱に駆られて社会事業に第一歩を踏み出した職場は、大阪市立北市民館。・・・大正末期、昭和の初めのそこは、ひどいスラムの真っただ中であった。・・・」
「保育組合の保母となったが、しかし当時は、昼食の弁当をもってこない子供たちがかなりいた。学生時代に習った保育理念を実践しようとする以前に、子どもたちを取り巻く生活環境の改善に、心を砕かねばならなかった。」
「神学校でつちかわれた私のヒューマニズムの上に、つねに貧しいもの、弱い者、権力のないもの、庶民の側に立つ立場を、確立した時期でもある。」
右端が比嘉正子
青空幼稚園創設
1931年3月 8月 | 青空幼稚園開始 志賀志那人先生の一言から「北都学園」設立 |
1932年 | 北都学園の名称を私立都島幼稚園と改称、園長に就任 |
1934年3月 | 私立都島幼稚園 認可 (法的には幼稚園であったが実際の内容は今日の保育所システム) |
幼稚園のもつ教育的要素と託児所のもつ保護的要素の両方を兼ねた保育所の設立が必要であると判断した。
子どもを3人育てるのも、20人育てるのもいっしょだよ。公園の木陰、太陽の下、立派な園舎である。木の葉っぱや石ころ、虫けら、草花みんな自然が与えてくださった子供たちへの贈り物である。滑り台やブランコだけが遊び道具じゃない。それがなければ幼稚園が出来ないと思うな。
・・・北都学園の名称は北斗七星の「北」と都島区の「都」を取ってつけた名称で、大学まで発展させるような立派なイメージを与えたようであった。しかし、実際には園舎も幼児数も増えたが、人格のない、幼稚園でもない、悪く言えば「もぐり幼稚園」であった。行政もなんら干渉もしなかった。 幼稚園は特権、富裕階層の幼児の入るところ、託児所は貧困家庭の子を無料で預かるところと、一般に思われ、包含する精神を知るすべもない世相であった。従って託児所は公立により、私立は財力背景のあるキリスト教団とか、仏教団、婦人会によって設立された。 幼児教育の必要性も大衆的になるにおよんで、幼稚園のもつ教育的要素と、託児所のもつ保護的要素の両方を兼ねた保育所設立が必要であると判断した。
戦時の比嘉正子
1939年 | 日の丸弁当持参になる。 |
1941年 | 戦時色が濃くなり、 集団退避訓練が保育内容に取り入れられた。 |
1943年 | 戦時保育所に切り替え、出征軍人の子、 戦争未亡人の子、勤労婦人の子を優先入園させる。 |
1945年3月 | 最後の修了式を行い、都島幼稚園閉鎖。 (大阪府知事より戦況逼迫のため、閉鎖命令を受ける) |
食料品が統制され、物みな配給制度になり、配給量も少なくなる一方だったので、栄養を維持することができなくなった。たくましい父兄は、農村、漁村へ買い出しに行き、金のある父兄は法律に違反しても、闇屋から仕入れるようであったが、配給だけで暮らしている人たちは栄養失調になった。子供達の弁当はおかずなしの弁当箱の中に、梅干し一個を入れてきたが、その日の丸弁当もだんだん量が減って、米の部分が薄っぺらになっていった。・・・「先生お腹ぺこぺこだよ」と訴えられても「欲しがりません勝つまでは」と、たしなめる保母の心はむなしかった。
工場という工場が軍需工場に転用させられ、保育所の隣にあった工場も、海軍の軍需工場となった。戦局の進展とともに・・・私の保育園の建物に目をつけ買い取りの話が持ち上がった。・・・当時は何事も「軍」にさからうことのできぬ時代であった。しかし私には子どもを預かっているという責任感がある。子どもの母親の大部分は軍需工場で働いたり、出征兵士の妻として、幼い子どもを抱えて内職している人もいる・・・もし保育園がなくなり、子どもが家庭へ戻っても、誰が面倒をみるのか―と思うと、軍の圧力で買い取るという話しぶりには、どうしても納得がいかなかった。・・・「出征兵士の方々が安心してご奉公できるのも、お母さん方が安心して軍需工場で働けるのも、保育所があるからではありませんか。私は保育所を閉鎖するわけにはいきません。・・・軍需工場が戦力であるなら、保育所もまた戦力であります」と夢中になって申し上げました。
Column
野口雨情と園歌
野口雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 – 1945年(昭和20年)1月27日)は、日本の詩人、童謡・民謡作詞家。多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。代表作は『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など。本名は野口英吉、茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)出身。(ウィキペディアより)
「童謡は童心性の表現であります。ですから正しく子供の生活が表現されてゐさへすれば、その作者が大人であらうと、子供であらうと、些かも問ふところではないのです」。「童心はまさに良心であって、良心は即童心であります」。「童謡の正風は土地の自然詩でなくてはなりません」。「ほんとうの日本国民をつくりまするには、どうしても日本国民の魂、日本の国の土の匂ひに立脚した郷土童謡の力によらねばなりません」。
(野口雨情)
第二部 戦後の比嘉正子ー社会福祉事業と消費者運動を両輪としてー
戦後の比嘉正子
1945年 | 米よこせ風呂敷デモ大阪府鴻池主婦の会結成 |
1946年 | 物価値下げ運動を行う。 横行するヤミ値切り崩しの努力し、梅田で街頭販売をし、生活防衛を図る。 |
1947年 | 主婦の会結成 |
勝つと信じていた戦いに敗れ、3人いた子どもの2人まで亡くしてしまった。 何という愚かな、罪深い母親だろう。・・後から後から後悔がわいてくる。 もう再び仕事はすまいと懺悔の日々を送った。 ・・・ところが戦後の社会状況は逃避を許さなかったのである。
「生活の苦労をしているわてらが立ち上がらなければ、食糧危機を突破できない」と、おカミさんが「米よこせ」の旗を掲げて行動した。・・・金もない、食もない、紙も電話も着るものも〝ないない〟づくしの20年10月に鴻池新田西村(現東大阪市鴻池町)の農村に疎開して、生活が追い詰められたおカミさん達の、すり減った下駄とすりきれたワンピース姿で物資のありかをかぎつけては、分捕り作戦的行動も会員の喜ぶ笑顔で支えられてきた。
一人の力では弱くものも言えない。実行もできない。〝米よこせ〟で団結の力を、身をもって体験した主婦たちの結論は〝生活危機突破のために会を組織しよう〟ということであった。・・・毎日の動員、戦い終わって帰る交通費もなく難波から梅田までテクテク歩きながら「婦人運動ってこんなに辛いものなのか、誰か代わってくれないだろうか」と、つぶやいた。・・・資料を得る役所もなく、企画する知恵もなく、暗中模索、やみくもに情熱だけが武器であった。
社会福祉事業の再出発
1949年 | 都島児童館設立 |
死んだ子の墓を建てるより生き残った人たちへの
愛に使うべきと決意して建設準備にかかった。
それが都島児童館である。
・・・都島の焼け跡地には、お腹をすかしてうろうろしている子どもがいる。・・・拾い食いをしている子どもたちの姿、疲れ切った母親の姿、小学生が小さい子を背負って学校へ行く姿、教室では妹や弟がうろうろしている姿を目のあたりにしてしまうと、わが子の墓を建立するために蓄えてあった15万円、死んだ子の墓を建てるより生き残った人たちへの愛に使うべきと決意して建設準備にかかった。それが都島児童館である。その頃は、まだ日本国憲法はない、児童福祉法もない。都島児童館へ行けば何か食べられる。妹・弟を学校へ連れて行かなくても児童館で預かってくれる。・・・習字、そろばん、絵、何か教えてもらえる。子どもたちにとっては楽園だったであろう
都島友の会設立
1950年3月 | 財団法人都島友の会認可。都島保育所開園関西主婦連合会会長に就任 |
1951年 | 学童保育開始。都島診療所開設 |
1954年 | 都島病院認可 主婦の商品学校開始 |
1960年 | 都島乳児保育所開設 |
1967年 | 都島乳児保育センター設立(同時に)賃貸住宅あやなす荘設置経営 都島乳児保育センター開設 |
1976年 | 都島こども園開設 |
1981年 | 都島友の会50周年 |
昭和25年8月には診療所をつくった。預かっている園児が、急に熱など出して困るケースがふえ、近くにお医者さんも少なく、家庭に連絡しようにも母子家庭や共稼ぎ家庭で母親が留守なので、園で健康管理を引き受けようというのがその設立動機であった。・・・病院の出発が、都島児童館の園児の診療という、いわば保育事業から出た一つの枝であるとすれば、乳児保育センターも同じである。働く婦人がふえ、その中でも既婚者の割合が年々ふえてきたが、その最大の悩みは子どもの保育である。それも、産後の休暇が終わってすぐに働きだすためには、生後1カ月半ぐらいから乳児を預かる施設が必要なのに、それが少なくて社会問題になりつつあった。時代の要請に応じて、児童館で預かれる年齢前の乳児を対象に、はじめたのが同センターであり、38年にこれを始めた。・・・こうしてみると、戦後の私の活動のすべては、都島児童館が原動力になっている。
比嘉正子の福祉理念
- 愛あるところに万物は育つ
- (愛があるところ、人間、動植物すべて、ものは育ちます)
- 万物愛し育てる者の苦労を喜ぶ
- (愛し育てる人たちの苦労を喜びましょう)
- 森羅万象は子どもの友達
- (宇宙の者すべて友達です)
- 目で(に)見る 耳で(に)聞き 鼻で(に)かぎ
手に触れ得る宇宙にそんざいする全てのものはともだちです
- 大自然は無言の聖典である
- 自然の理法に順応した保育
(大自然は神聖な書物、教科書です)
- 自然の理法に順応した保育
- 保育は民族繁栄の偉業である
- (子育ては民族繁栄の優れた大きな事業です)
- 幼子は神の子である
- 生まれながらにして純粋無垢
- 育てる心 われにきびしく
- 子どもの育つ心をみつめる
- 強い子良い子
- 研鑽と努力の生かす活かす上に咲く花
- (強い子、良い子が育つには根気よく研鑚し努力することよって花は咲きます)
- 自己により外、他人から学ぶ教師
- 謙虚な心で相手から学ぶ素直
- 勉強、経験、頭脳、技術生涯を通じて
- 絶え間ない研鑽を積み重ねる
- 人間の幸福の条件
- 体と心と健康、経済社会の安定とロマン
- うらみ、つらみは己を没す
- 国家、社会、人類の共同体の尊重
- (戦争をしてはいけません)
- 眺めて楽しい保育は、丹精込めた保育、すべて総合芸術
- (建物にしても関わる人々、子どもたちの姿、丹精込めたものすべて芸術です)
- 古きをたずねて新しきを知る
- 天地、先人の恩を忘れず感謝を忘れず
- 努力を重ねて人は誰でも達人になる
各界の人が見た比嘉正子像
比嘉正子―もし、この人が平和な時代の中に生きていたら、何のこともない平凡な一主婦で終わっただろう。それほど地味な、人情豊かな女性である。ところが幸か不幸か、戦争と戦後の混乱が彼女を無類の女闘士にのし上げてしまった。「私は、正しいと思ったことをやるだけなのよ」と事もなげに言う彼女。それだけに彼女のもつ行動力の大きさと強さは、時に底知れぬほど痛快なものになる
(元朝日放送社長 故原 清氏)
非をなじり、是を迫る比嘉さんはバイタリティにあふれておられ、信念と闘志の固まりであった。一見、天下無敵、怖いもの知らずにみえる比嘉さんの本来の姿は、つねに貧しい者、弱い者の立場に立つヒューマニズムの精神であり、“すべてを神に委ね”、他人の子をわが子として保育することを終生の事業として志されたところにこそ見出すべきではないかと、私には思える。
(関西電力株式会社社長 故芦原義重氏)
当節流行のウーマンリブとやらも、比嘉さんの前では顔色あるまい。彼女の虚飾のない発言と行動は、今日の日本の自覚をもった主婦の新しい典型をつくった。比嘉さんの行動の裏には、伊達や酔狂ではない「生活」が背景としてある。それ故に彼女の行うことはなまじな政治家には及ばぬ進歩をもたらし得る。
(東京都知事 石原慎太郎氏)
まったくこの人は天下無敵、こわいもの知らずの快童女である。ゆくところ風雲をまきおこすが、それはもって生まれた真っ正直な性格ゆえだ。力あるものに対して屈せず、迎合せず、いざとなればトコトンまで闘う。信念、闘志、しぶとさ、あっぱれの女丈夫である。
(評論家 入江徳郎氏)
私と比嘉さんとのお付き合いはもう随分と長く、その間、政治家と主婦連代表という、ともすれば水と油の関係にもなりかねない間柄が、天ぷらの具とその衣のようになったのは、正しいことは自己の信念に基づき筋を通してやり抜くという私の不退転の政治理念と、比嘉さんの社会のためになることならどんな権力にも屈せずやり遂げるという男勝りの信念とが、知らず知らずの間に通じ合ったのかもしれません。
(故渡辺美智雄氏)
エピローグ
社会のすべての活動の終着点が人類福祉にあると思う。
福祉にはすべての人が健康で文化的かつ快適な生活が守られ、豊かな人間生活が実現できることを内包するものでなければならないと考えている。福祉が虚像化されないように何を目的に、どのような具体策がより生きがいを与え、血の通った行政とのつながりを持つかを皆で考え、その声を未来に向けての展望と指針にいくらかでもアプローチするステップになることを望み、又、社会のすべての活動の終着点が人類福祉にあると思う。