創立85周年を迎えた都島友の会

平成28年3月1日、都島友の会は85周年を迎えました。

法人の誕生した大阪市都島区は大阪市の北東部に位置します。設立当初(昭和6年)の都島は日本の近代化に支えられた大阪市の急速な発展によって、農村から住宅地・工業地・商業地の混在化した市街地へと大きく変貌を遂げました。しかし戦争が始まり、大阪大空襲で都島は焼け野原となり、敗戦を迎えます。

戦後、焼け野原から出発した日本の中で、都島も高度成長と共に繊維業や軽工業を中心に発展、人口も増加して行きましたが、昭和40年代後半から公害等の問題で工場は地方へ移転し、人口も昭和40年の3万1303世帯をピークに減少をたどります。

その後、繊維工場等の広大な跡地は大規模な超高層マンション群に生まれ変わり、市立総合医療センターや福祉施設、毛馬桜宮公園、淀川開発等々、また生活関連施設も整備され、水と緑に恵まれた魅力あふれる“街”に変貌を遂げました。世帯数も平成26年には、5万1452世帯になるなど、ドーナツ化現象から都心回帰現象へと時代社会の変遷とともに人口も増え、子どもの数も増加していきました。

現在、都島区は65歳以上(高齢者層)の世帯が3万1303世帯に及び、少子高齢化の進行や居住家屋の老朽化、核家族化や単身世帯の増加等々、ご多分に漏れず日本社会の抱える幾多の問題が集約されたように、課題もまた山積しています。

私たち法人は、日本はもとより、このようにも変遷してきた都島区の歴史と軌を同じくして変化を遂げて来たのではないかと思います。先日、古い資料を整理していると、比嘉正子が、60周年(1991年)を迎えた時のことばがありましたので、すこし紹介したいと思います。

『…私は、昭和6年、26歳の時、3人の乳幼児を育てながら青空幼稚園を始めました。名もなく、金もなく、地位もなく、あるものは銀行員の夫と3人の子どもだけです。大阪北市民館の館長であった志賀志那人先生から「キミ、都島へ行って幼稚園を作らないか、子ども3人育てるのも20人育てるのも一緒だよ。人間が作った建物だけが園舎ではない。ブランコやすべり台だけが遊具ではない、天然自然、神様はおのずから子どもたちに素晴らしい恵みを与えて下さっている。木の陰や、野原、公園は、みなこれ園舎である。石ころ、虫けら、花や木の葉、土など、これみな子どもの恩物だよ。」とお話しされました。尊敬もし、社会福祉の先達者として著名な先生の迸る保育理念のひとこと一言が身に染み、眠っていた社会事業への情熱が炎のごとく燃え上がり、やれるような気持ちが芽生えて「よし、やろう!」と決心するまで、2日とかかりませんでした。

開園をPRしてみると、45名の子どもが集まり、3名の女性が奉仕を申し出てくれました。園の名称は「北都学園」。今にもでっかい立派な学園が出来そうなイメージの名前と看板でした。借家の間口3間ぐらいの集会場で点呼を終えると、都島小公園で歌ったり、木陰で紙芝居やお話、お遊戯、ゲームをするのが日課でした。子どもの楽隊を編成して、プカプカドンドン太鼓を鳴らし、趣を変えて区内を行進したり、私の3名の子どものうち下の子は乳母車に荷物と一緒に積み、上の2名は園児と一緒に保育という毎日が続きました。雨の日は、狭い土間でピアノを弾いて歌とお話し、昼まで時間がもたず、午前中保育で切り抜けたりもしましたが、昼からの分の保育料をお返ししなければと本気で心配しました。

半年後、地元の山野氏にお願いし賃貸の園舎を建てていただき、土地、建物をお借りしました。当初1円だった保育料を2円に値上げ、その中から家賃を支払いました。園児も80名になり、ようやく安定した保育を続けることができるようになりました。戦争が始まり戦時体制となった頃には300名の子どもを預かるまでに膨れ上がりました。戦争の嵐の中では長時間保育は当然、避難訓練が日課の保育でした。食糧難、薬、衣類、履物、無い無い尽くしの中、昭和19年1月、2月と続いて、我が子2名を病死させてしまいました。昭和20年6月には、大阪第2回目の大空襲で園舎は焼失、ちょうど3月に休園しており、子どもたちの命は、守れました。

昭和20年8月、終戦。疲れ果てた母子が「夫が戦死しました。」「生活に困っています。」「働き口を探しています。」「子どもを預かって下さい。」「助けて下さい」等と訪れ、仏心が湧いて「よし、死んだわが子の墓を建てるより先に、生き残った人達の為の保育園をつくろう!と再び決意をして、昭和24年に都島児童館を再建、財団法人第1号として認可を受けました。

顧みて60年間の道のりは険しかったです。私たちは0才児保育も民間保育所の草分けでもありました。戦後のバラック小屋の様な建物も今日では鉄筋コンクリート建となりました。0才児から就学前の子どもたちを預かり、学童保育、さらには発達に療育を要する子どもたちの施設と、9カ園の施設になりました。今では1日1000名前後の子どもたちが出入りしています。

これまで私は子どもたちから多くのものを学びました。子どもには、子どもの世界があり、夢があります。時々、刻々と成長してゆく子どもたちには、未来があります。私の夢を子どもたちに託していきます。…』

戦前、戦中、戦後と法人の歩んだ道は、乳幼児や障がい児の保育・教育・療育はもとより、女性や生活者、地域や高齢者へと広がる日本の福祉事業の歴史そのものでした。

比嘉正子が亡くなった1992年以降、日本は本格的な少子高齢化社会を背景に、1997年(平成9年)に児童福祉法が改正、2000年(平成12年)には高齢者向けの保健・福祉サービスを統合した介護保険法が施行され、児童や高齢者をはじめとする福祉のあり方は大きく転換していきます。また昨年2015年4月からは、国の教育再生のためのグランドデザイン「子ども・子育て支援新制度」による「幼保連携型認定こども園」がスタート、私たち法人でも都島児童センター、都島友渕保育園、成育保育園が、それぞれ認定こども園都島児童センター、友渕児童センター、成育児童センターとして新たな出発をすることになりました。

今日、日本は人口減少社会の中で、止まらない少子高齢化の進行、核家族化や単身世帯の増加、終身雇用の変化や若年層の雇用情勢の悪化、地域社会における支え合いの脆弱化など多くの課題とともに、都市部では待機児童の問題、あるいはこれまでの公的な支援では対応しきれない「制度の狭間にある」社会的排除や地域の無理解から生まれる新たな問題も起こってきています。またこれまで日本の福祉の一翼を担ってきた社会福祉法人を取り巻く環境も、日本の社会の構造変化や経済的状況等から大きく変化し、あらためて私たちの存在意義が問われています。

私たちは創立85周年を迎えるにあたり、法人全体、職員一人ひとりが、法人が歩んで来た社会福祉活動、その理念や目標を今再び深く振り返り、再確認することで、これからも皆様の信頼に深く応えられる地域に根差した社会福祉法人として、更なる前進を図りたいと考えています。またこの1年、6月に開催する「都島友の会 創立85周年記念発表会」をはじめ、記念行事や講演、研究発表会、各園での運動会や発表会、地域イベントの参加等を通して、地域のさまざまな福祉施設やボランティア、NPO、そして住民の方々と深く連携し、安心して次世代を育むことのできる「暮らしやすい地域づくり」、その第一歩となる取り組みを行っていきます。どうか共につながり、共に結ばれ、共に支えあい、新しい都島をつくっていきましょう。

(都島児童センター、都島乳児保育センター、都島第二乳児保育センターの職員たちと一緒に)

ゆんたく都島 Vol.24(2016.3)