85周年。今こそ温故知新の精神で―。

皆様にはご多忙な中、6月11日に開催いたしました85周年発表会、6月20日の「みやっこまつり」にお運びいただき、誠にありがとうございました。発表会での子どもたちの歌や踊り、パフォーマンス、本当に素晴らしかったです。職員の発表では、職員のみなさんの日々の勉強ぶり、精進しているその成果が披露され、感銘いたしました。また「みやっこまつり」では、ボランティアの方をはじめ地域の方々にも数多く参加していただいて本当に感謝申し上げます。

初代 比嘉正子、2代目 仲田貞子、そして3代目理事長として私、渡久地歌子がつなぎつないで85年、ようやく今日ここまで歩んでくる事が出来ました。その間、多くの皆様との出会いがあり、ご指導、ご支援、ご協力いただきました事、ここに改めまして御礼申し上げます。

85周年発表会では、都島友の会の成り立ちや原点、そこから生まれた理念など、法人の歩みを職員たちの作った映像でご紹介させていただきましたが、私自身、映像を観ながら、「ああ、こんな事、あんな事があった」と、それぞれの時代や出来事が走馬灯のごとく浮かんでは言葉にならぬ思いが心に去来しておりました。

今から75年前、日本は戦争という大きな、大変つらい出来事を経験いたしました。その中にあって比嘉正子、比嘉家にも、暗雲立ち込めるように悲運、不運が次々と舞い降りてきました。「勝つと信じた戦いに敗れ、そのうえ1944年の1月と2月に続けて2人の子を亡くしてしまい、私はなんて愚かな母だと悔やみきれぬ後悔の中、再びもう仕事はすまいと懺悔の日々だった・・・」と、後年比嘉先生が私に話した時の表情が今も私の瞼に焼き付いて離れません。

昭和20年3月、大阪市内の三分の一は焼野原になり、多くの人命が失われました。都島も京橋から北一面は焼野原になったそうです。その年の8月、日本は敗れ、戦争が終わります。当然昭和6年からあった都島幼稚園の園舎も灰となり、何も残っておりませんでした。衣食住、何もかも足りない、その日その日を必死で生き延びてきた話をよく聞きました。「都島の焼け跡地にはお腹をすかしている子どもたちがいっぱいだった。地べたにあったものを拾い食いしている子どもたち、生きるための労働に育児にと疲れきった母親の姿、小学生の子どもが幼い兄弟を背負って学校へ行き、教室ではその子の妹や弟がうろうろしている姿を目のあたりにしてしまうと、亡くしてしまった我が子の墓を建てようと必死に蓄えていたお金を、生き残ったこの子たちのためにこそ使うべきだと決意した」と、都島児童館建設への想いを語った話を聞くたび、私は涙がとまりませんでした。今も皆さんにこの事を伝えようとすると胸がはち切れそうになります。

終戦後、法整備も何も全く整わない中、お国や行政には頼れず、しかし目の前の困窮し苦しんでいる親や子どもたちに何が必要なのか、どうすれば彼らを救うことができるのか、ご近所の皆様や卒園生たち共々園の建設を手伝っていただき、寄せ集めの材料で拵えたあばら屋のような園舎とはいえ、それでも子どもたちにとっては雨風がしのげて楽園だったとのことです。習字・そろばん・絵画・宿題と、再建された児童館で子どもたちは勉強をし、ペコペコだったお腹もお味噌汁やいろんな具材が入った“ごちゃごちゃ煮”を食べ満たされて育っていきました。毎年3月に皆さんが材料を持ち寄って作る法人伝統の『ちゃんこ鍋』はまさに“ごちゃごちゃ煮”が由来です。「おいしいですネェ、夕食代わりに楽しんでいます」と言っていただける法人の名物にもこのような歴史があったのです。現在80才前後の皆様からは、「児童館があってどんなに助かったか、ありがとうナ」「父や母も児童館があったから安心して働けた感謝していたヨ」と今も児童館があってどんなに助かったか話をして下さいます。地域の皆様がいまだに法人を都島友の会でなく、親しみを込めて「児童館」と呼んでくださっているのもその名残りです。

法人の歴史や理念を語るとき、私たちはともすれば比嘉正子という創設者、法人設立以降の変遷や経緯だけを語りがちです。しかし法人の原点を考えてみますと、大正10年わが国最初の社会福祉施設として設立された大阪市北市民館、そして初代館長を務められた志賀志那人先生の存在を忘れる訳にはいきません。比嘉正子は昭和6年に都島幼稚園を設立するまで、大阪北市民館に保母として働いておりました。大正時代の後半、大阪市北市民館のあった天六周辺はひどいスラム街の真っ只中でした。そこで保母として働いた体験、そして志賀先生に対する尊敬や共鳴、さらには志賀先生から「貧しきもの弱き者たちのための幼稚園を作れ」との教示が、その後の彼女の人生、そして法人の設立に多大な影響を与えることになります。あるいは、比嘉正子が17歳の時、沖縄から単身大阪に来て、”留学生“として在籍した「パプテスト女子神学校」、現在の大阪市淀川区にありますミード社会館の前身にあたるものですが、後年比嘉は、「パプテスト女子神学校は文化的で清々しく、本当に清楚な感じのする学校であった。毎日バイブルを勉強の基礎とし、講議や実習は厳しかったが、校長、教頭はじめ多くの先生達は極めてヒューマンで、日常の中に自由とユーモアが溢れていた。男子のバイブルクラスもあり交際も自由であった。私の人間形成はこの時期にこの環境でなされたと思う。」と自らの手記に書いております。最も多感な時期に校長先生であったミス・ミード、彼女は生涯”日本の女子教育とキリストの伝道に捧げた方“ですが、ミス・ミード先生から受けたキリスト精神、人間としてのあり方、さらに学生生活で味わったアメリカの開明的で先進的なモダニズムや自由主義、男女平等の空気など、彼女が100年前に受けた教育は、北市民館での経験、志賀志那人先生の薫陶と共に、その後の人生の礎となり、私たち法人の理念にも大きな影響を与えていると思います。

比嘉正子という女性に様々な出会いがあり、そのことが彼女の人生に大きな影響や力を与えているように、私たち法人にも、それ以前から培われてきた日本の福祉、その歴史や先人たちの存在があることを忘れてはならないと思います。特に大阪には先ほど申し上げた北市民館をはじめ、日本の社会福祉、地域福祉の先頭に立ってきた多くの先達の方々、その長い歴史があります。それらの方々のお力や土台の上に立って現在の私たちがあること、そのことをもう一度深く胸に刻まねば、と思います。

さて昨年、日本は、幼保連携型認定こども園をようやく発足させました。教育の質の向上や見直し、とりわけ幼児教育の見直しや整備は喫緊の課題でありました。これまで日本では、「これは厚労省、ここまでは文科省」と、いわば大人同士の力関係があり、なかなか前に進みませんでしたが、内閣府指導のもと、ようやくのことで出発しました。但し、なんとか一歩踏み出したものの、様々な要因もあり、大阪市にあっては幼保連携型認定こども園への移行は数カ所しか進んでいません。子どもたち、幼児に今本当に何が大切か、人間としての育ちのなかでの教育、保育養護の大切さをもっと声を大にしていかねばなりません。

あるいは人口減少化社会を迎えた今日、高齢者の問題、若年層の雇用情勢の悪化、地域コミュニティの脆弱化など多くの課題が山積し、しかも国家財政の緊迫化する中で、すべてを国頼みする訳にはいかない状況になっています。またこれまで日本の福祉の一翼を担ってきた社会福祉法人も、制度改革や取り巻く環境の変化の中で、その役割や存在意義が大きく問われています。

これまで何度も申し上げていることですが、私たち法人の福祉の目標は、”揺りかごから墓場まで“生涯にわたって地域や地域住民の方々と社会福祉活動を通じて関わり、「すべての人が健康で文化的かつ快適な生活が守られ、豊かな人間生活が実現できる」ことを目指し活動しています。昔、比嘉正子は申しました。「人間は本来、皆な平等である。しかし生きていく社会の中には矛盾や不平等もたくさんあり、その不平等をいかに少なくしていくか、そして貧しい者、弱き者、権力のない者、制度や社会から零れ落ちた者に寄り添い、彼らの力となるべく社会事業に身を投じていかねばならない」。
まさしくここに福祉事業、福祉の原点があると思います。

『温故知新』―。創設85周年を迎えた今、私はこの言葉、この精神を再び思い起こし、先人たちが培い、切り開き、継承してきたその土台に立って、私たち一人ひとり、そして法人全体が力を合わせ、過去、現在、未来を“つなぎつないで”、本当にこの法人を引き継げて良かったと思えるよう、頑張ってまいりますので今後ともよろしくお願い申し上げます。

ゆんたく都島 臨時号(2016.7)