『都島児童館』に刻まれているもの

都島友の会には、『都島児童館』という学童期の子どもに向けた複合施設があります。現在、都島に2か所、高倉、中野、友渕、計5か所の生活クラブ、都島児童センターに教育クラブがあり、生活クラブでは放課後、異なった年齢の子どもたちが一緒に予習や復習など勉学に励み、学校や家庭ではなかなか出来ないさまざまな遊びや体験を通して、自らで考える力、社会性、そして優しさや思いやりといった情操力を養っています。また教育クラブでは専任の先生から、絵画、ピアノ、英語や書道、モダンバレエなど、質の高いレッスンを受け、豊かな感受性や学力を身につけていきます。

さて『都島児童館』は、現在のこうした学童期の子どもたちが通う施設であると共に、私たちにとってかけがえのない法人の歴史や原点ともいうべき精神がそこに刻まれています。私たちにとって『都島児童館』とは何であるのか、少し書き記してみたいと思います。

今から85年前、創設者比嘉正子は都島の地に青空保育園を創設、その後名称を都島幼稚園と変えますが、託児所的な性格と幼稚園的な教育的要素を兼ね備えた保育施設として、都島の人々から愛され、順調に発展を遂げてきました。しかし満州事変、上海事変、太平洋戦争の勃発と、日本は全面的な戦時体制となり、夫や若者は戦争へ、妻や婦人は軍事工場へ動員、物資は欠乏し、食料は配給制度となり、配給だけでは栄養失調になっていく時代となります。昭和20年3月13日、戦時状況から大阪府知事より都島幼稚園に閉鎖命令が下され、園を余儀なく閉じることになりました。それから3ヶ月後の6月には大阪が大空襲を受け、都島は焼野原に、園舎は全焼してしまいます。そして終戦―。

戦争末期の非常時の窮乏の中で、比嘉正子は、長女、長男を次々と病で亡くしてしまいます。最愛のわが子を失い、精魂込めて作り上げた園舎を焼かれ、信じていた愛国の精神を打ち砕かれ、彼女は戦後、疎開先で打ちひしがれた日々を送っていました。

ところが疎開先のもとへ、「助けて下さい、疎開から帰れない」「働き場がない、住む所がない」「夫は戦地から帰ってこない、生活に困っている」との母親たちからの手紙。戦前の卒園生たちからも「行き場をなくした子どもたちが京橋で、天六の闇市で、拾い食いをしている」「焼跡の整理は何とかぼくらで引き受けるので、すぐ帰って来て下さい」との声…。大阪の街は両親を失ったいわゆる浮浪児たちがあふれていました。疲れ切った母親の姿、小学生が小さい子を背負って学校へ行く姿、教室では幼い妹や弟がうろうろしている…。

そのような光景を目の当たりにして、死んだ我が子に懺悔をし、もう二度と仕事はすまいと悔いていた彼女ですが、我が子の墓を建てるためと必死に貯めたお金を、困窮し苦しんでいる人たちにこそ使うべきだと思いを新たに焼失した園の再建に取りかかります。まだ日本国憲法も発布されず、児童福祉も何もない、まさに混乱した只中でのことです。

地域の人たちや卒園生たちの力も借りて、ようやく昭和24年11月、バラック小屋ながら、住宅と併設した子どもたちのための “雀のお宿”が完成します。それが、『都島児童館』のはじまりです。

バラック小屋でも、子どもたち、地域の皆さんは大喜び。“雨風はしのげる” “児童館へ行けば何か食べられる。” “妹、弟を背負って学校へ連れて行かなくても児童館で預かってくれる。”“習字、そろばん、絵、何か教えてもらえる。”…とにかく何もかもが欠乏し、子どものことのみならず、目の前にある困りごと、相談事、親も子も、そしてお年寄りも、何もかもが混然一体となった、そんなスタートでした。

都島児童館には珍しい堀こたつ式の図書室を拵え、それがマスコミにも取り上げられて、だんだんと広く名を知られるようになっていきました。ある時、小学生の子どもを1人あずかった事から2人3人と増え、学童の集団形成が大きくなっていきます。保育部の職員、ボランティアの人たち、お稽古の先生方、皆がごく自然に、学童の子どもたちの面倒を見るようになり、勉強を教えるようになり、習い事も始まりました。もちろん無料です。誰もが人々から求められているものに精一杯応える、応えねばならないという奉仕精神一筋の行為であったのだと思います。

行政もこれに注目するようになりましたが、補助金が出るようになり、指導員の配置ができるようになったのはずっとずっと後の事です。

戦後の混乱した只中からようやく制度や法整備が整う中、昭和25年3月10日、都島友の会は、大阪府知事赤間文三から財団法人として許可されました。

  1. 児童福祉法による保育所
  2. 児童福祉法による児童厚生施設
  3. 社会事業法による医療保護
  4. その目的達成上、必要と認めたる附帯 事業 等

ということになり、都島友の会は、保育所であり、児童厚生施設であり、医療施設でありと、まさに ”揺りかごから墓場まで“幅広い福祉事業を行い、特に地域の方からは1と2を『都島児童館』として親しみを込めて呼ばれてきました。

昭和27年には財団法人から社会福祉法人に変更となり、日本の高度成長と共に、園児、児童人数ともに増え、昭和38年には園舎を増改築、昭和39年7月5日、都島区の学童保育の必要性を中馬馨大阪市長に申請、昭和39年7月15日付に”児童厚生施設“「都島児童館」の設置の許可(大阪市指令民第812号)が下りました。

昭和39年7月15日、許可が下りた「都島児童館」の設置目的と事業内容

○児童厚生施設「都島児童館」の設置目的及び理由

地域にあって15年間、学童の為に施設を開放し遊戯やサークル活動を通じて又、低額な利用料によるクラブ活動によって子どもたちの健全育成を目指して来ました。その他最近とみに高まって来た鍵っ子対策とも取り組んで来ました。それ故に従来の児童活動をより充実したものにし、積極的に地域活動を推進して行く為にも是非必要であると考え児童館を設置しました。


  • 長時間保育を必要とする保育部
  • 短時間保育を必要とする幼児部
  • 放課後学習と保育を必要とする学童保育
  • 保護者交流会 保護者会

が、同施設内に併設されたことになります。

昭和35年に、都島保育所から乳児部が独立。昭和41年全国初の乳児専門保育所、都島乳児保育センターが誕生します。昭和47年には都島保育所、都島児童館(教育クラブ、放課後児童)が老朽化した木造から、安全、安心な鉄筋コンクリートの建築物に建て替わります。

それから40年後、平成26年には現在の都島児童センターの建替が行われ、都島保育所も、幼保連携型認定こども園となりました。

都島保育所の建物内にあった放課後児童健全育成事業は、平成27年4月1日には、都島生活クラブ、友渕生活クラブ、高倉生活クラブ、中野生活クラブ、計4か所で行うことになり、教育クラブを都島児童センター内で行うことになりました。

日本社会の発展や変遷、法律や制度の変更と共に、私たち法人も形態を変え、名称も変わり、それと共に組織や施設の内実も充実し、洗練され、整備されていきました。現在私たち法人は、大阪に8か園の幼保連携型認定こども園と保育園、沖縄に2つの保育園、そして療育を行う児童発達支援センター、2か所の高齢者施設があります。さらに地域の相談・生活支援の窓口としての比嘉正子地域貢献事業研修センターひまわりネットを運営しています。

しかしこれらの各施設が現在行っていることは、戦後、まだ法律や制度も整わぬ中、焼け跡の中から『都島児童館』を立ち上げ、地域やボランティアの人たちのご助力と共に、目の前の困っている方々に手を差し伸べようと力を振り絞ってきたその活動の中に、実は種子として萌芽としてみんな内在していたものです。

都島友の会という法人に、そして『都島児童館』という名前に一貫して流れているもの、それは制度や法律以前に、あるいは法律や制度のはざまで、今目の前に困っている方がおられるのなら、耳を傾け、手を差し伸べ、出来うる限り支えようとする、その精神、心なのではないかと思います。私たちの先人たちがそうしてきたように、今日の時代、そして将来にあっても、私たちはその心、その精神、そしてその志を忘れず、たゆまず歩んでいきたいと思います。

(都島児童館の子どもたちと一緒に)

ゆんたく都島 Vol.25(2016.10)