都島友の会、乳児保育の先駆者としての歩み

都島友の会は平成29年3月1日で創立86年を迎えました。

昭和6年(1931)、都島公園で青空保育を開始し、山野家のご厚意で借用できた土地と園舎(都島幼稚園)から私どもの幼児教育、幼児保育の歩みは始まりました。やがて昭和6年(満州事変)、昭和12年(支那事変)、昭和16年(太平洋戦争)と続き、昭和20年3月、大阪府知事名で都島幼稚園の閉鎖命令が出され、6月には大阪空襲で園舎は焼け、焼野原となりました。その2ヶ月後の8月15日、日本は敗戦となりました。日本も都島幼稚園もすべては海の藻屑と消えたようなものでした。

しかし戦後、日本は再建に取りかかります。比嘉正子も大阪の地で焼野原をさまよう子どもたちの姿を見た時、この子どもたちを見放してよいのかと歯を食い絞る思いで園の再建に取りかかります。通称「子どものお宿」「子どもたちのやすらぎの家」、これが前号で私がご紹介した都島児童館です。

昭和22年児童福祉法制定、23年に児童福祉施設最低基準公布施行、昭和26年児童憲章制定と児童福祉の法制化は進み、民間保育所の設立は増えてきましたが、その姿は養護中心の保育所でした。

昭和30年代の日本は高度成長によって女性の社会進出が進み、それと共に、“子どもは社会の子ども”として集団の人間関係の中で育てようとする“託児”から“保育”へと向かう変革期に入ります。大阪市でも多くの新しい施設が生み出されました。地域の一般家庭で子どもを預かる家庭保育制度を全国に先駆けて新設。2歳児を対象とする低年齢児児童保育室も設置されます。昭和34、35年度には民間保育所に年間4000万円の貸付金制度を作り、乳児保育専用設備を作ることを大阪市は奨励しました。しかし本格的な乳児保育は進みませんでした。社会や行政においてもまだまだ乳児保育に対する理解はまだ乏しかったと思います。

そのようにまだまだ0歳児を受け入れる園がなかった時代、昭和35年に比嘉は都島乳児保育所を開設、いち早く0歳児保育を始めます。子育て経験豊富なベテラン職員3名が、0歳、1歳、2歳児の各担当になりました。保育室は診療所の一室です。設備も何もかもが不十分、あるのは職員の愛情と必死の奉仕精神・・・。それでも子どもに熱がでたり、事故や感染症など保育中の子どもに突発的な異変があった時、保育所が診療所の一室にあることはまことに心強いものでした(まさに今の病後児保育の先取りでした)。

子どもたちの食事は本園(都島保育所)から運び、職員はしばしばインスタントラーメンで済ませ、しかしこのインスタントラーメン(卵入り)はなかなか好評で、今でも懐かしいと語り草になっています。保育所というより小児病棟のイメージでしたが、環境も整い、ベッドの高さひとつとっても、子どもの安全や職員の腰痛への配慮も十分に考えられるなど、色々と細やかな配慮がなされてありました。当初は着替え(上着、下着)オムツ、布団すべて持参するもので、保育室一室の2分の1が荷物預所になってしまう環境でしたが敷地は広く、走っても転んでも痛くない四季折々の草花の生える野原が運動場です。ウサギを野放しにしたり、冬は雪遊びをしたりと恵まれた自然の中で子どもたちは育まれました。

昭和40年代に入ると、就労する女性の数はますます増加し、職場においても女性は不可欠な存在としてしだいに定着していきました。それに伴い、乳児保育の要求は社会的に急速に高まり、乳児保育も本格化します。そこで昭和41年、比嘉正子は住居と保育所を隣接させた都島乳児保育センターを設立します。1階が、事務所、会議室、給食室、沐浴室等を併設した0歳・1歳・2歳児の保育所、階上の2階3階4階は賃貸住宅という構造です。あくまで子どもが生活する場は第一に家庭、だからこそ家庭生活が営まれる住居と保育所は近接していることが望ましいとの考えからです。しかも賃貸住宅で乳児保育の資金調達を図るとのアイデアも込められていました。どんどん申込みがあり、(今の年度途中入所)8月には、60名から90名へ定員変更しました。園舎には廊下からも保育室からも出仕入れができる両面扉構造の専用ロッカーやおしめ交換台など独自のアイデアも盛りだくさん、おしめや布団は持参することなく業者にお願いをするシステムは、当時とても斬新なもので、清潔安心を確保し、保護者の負担(労力)を少しでも軽減できればとの配慮からでした。また1人1人の成長を細かく一目でわかるよう工夫された成長記録など、ハードソフト両面にわたりここまで乳児専門施設として行き届いた保育所は全国でも珍しく、国や地方行政の関係者をはじめ、全国各地から見学者は絶え間なく、園長、主任は、その対応に忙殺された時期もあったようです。また当時、「都島乳児保育センターに入るのは、大学に入るより難しい」といった笑い話もありました。

昭和48年に、0歳、1歳、2歳、計60名定員の都島第二乳児保育センターを開設しましたが、昭和50年になっても都島区内の保育ニーズは減少することなく、法人では昭和51年に都島東保育園、昭和58年都島友渕保育園、平成3年には都島桜宮保育園を新設することになりました。ただこの頃から全国的には出生数は大幅に減少し、平成元年には出生数は1.57に降下(1.57ショックと言われました)、平成5年には、1.46とさらに低下していきます。法人でも平成4年には都島乳児保育センターの定員を90名から60名に変更します。出生数減少に伴う変更でしたが、その際、一つひとつメリット、デメリットを全職員で話し合い丁寧に検討しながら、乳セ(都島乳児保育センター)は0歳と1歳、第二(都島第二乳児保育センター)は1歳から2歳、そして0歳から5歳児を包括する都島児童センターへと連なる3園連携体制を組み、0歳児から始まる一貫したカリキュラムのもとで、乳児のどの年齢から入所しても都島児童センターで卒園出来る体制になりました。もちろん法人の他の園を選んで頂く事もできます。

私たちは比嘉正子の「子どもは国の宝」との思いを出発点に、日本で最初の乳児保育の専門施設を立ち上げ、以降、今日に至るまで設備の充実をはじめ、数々の見直しを行ってきました。一昨年には職員たちが約2年の月日をかけて法人の乳児保育の集大成である乳児保育のガイドブックを完成させるなど、子どもたちはもちろん、保護者の皆様、そして法人の職員にとっても、いっそうより良い環境を実現するため、不断の努力を続けています。

法人のもつ先見性、先駆者としての「歴史と伝統」は、まさに、”古きを訪ねて新しきを知る“。乳児保育のみならず、「子育てサロン」「一時保育」「生活相談」「研修センター」等々、地域に根差した地域に貢献できる社会福祉法人として、制度や社会の狭間の中から新たなテーマを探っていく社会福祉の先駆者であり続けたいと考えています。

ゆんたく都島 Vol.26(2017.3)