―沖縄から沖縄へ― 出会いに導かれた比嘉正子の旅路

渡保育園と松島保育園

沖縄県那覇市首里金城町(首里城南下)。国の文化財に指定されている金城町石畳のすぐ近くに渡保育園があります。そこは法人の初代理事長比嘉正子の生誕の地でもあります。

首里城は、琉球国王の居城として那覇市内を一望できる丘陵地にあり、その周辺には現在も多くの文化財が残っています。2000年12月には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録され、世界各地から大勢の観光客が訪れています。

比嘉正子(旧姓 渡嘉敷周子)は1905年(明治38年)3月5日、琉球王家御用達の造り酒屋の家系に生まれました。17歳で教会の洗礼を受け、1922年(大正11年)、単身、沖縄から大阪バプテスト女子神学校(現在ミード社会館)に入学。そこで、校長 ミス・ミードと出会います。ミス・ミードは、その生涯を日本の女子教育とキリスト教の伝道に捧げた方です。後年、比嘉正子は様々な人との出会いがその人の人間形成に大きな関わりを持つことを、『その人の人生は恩師によって決まる』と述べております。比嘉にとっての恩師の一人がミス・ミード女史であり、彼女の教えであったキリスト教的博愛精神とミード女史が校長を務めたバプテスト女子神学校でのアメリカの民主主義が、彼女の人生に終生、大きな影響を与えることになります。

一方、関西学院の教授であり、当時、週2回のバイブル社会学の講義に来られた川上丈太郎先生との出会いがありました。川上先生は彼女に、”社会的な不平等と貧困がある限り人間は救われない“と教えます。キリスト教的な精神主義で人類が救われると美しい夢を抱いていた彼女は、社会改革や社会主義にも興味を持ち、社会変革への志を抱くようになったのです。

1924年(大正13年)、比嘉はその志を胸に、大阪市立北市民館(現在 大阪市立住まい情報センター)の保母として働くことになります。そこで館長 志賀志那人先生との運命的な出会いが起こります。志賀先生からは、”今まさに目の前に起きていること、それに対しどう対応していくのか“、机上の理論でなく、現実に飛び込み、そこで行動し、実践していくこと、今日でいう社会福祉の実践、その大切さと共にその醍醐味を味わうことになるのです。

保育を通して、子どもたちが育つその背景にある地域や環境の問題、学びと現実の落差、自分自身の経験や体験のなさ|。さてどうする。血の通った交流、自分が飛び込むのか、飛び込んでくれるのか…。神学校で授かった『常に貧しきもの、弱きものの立場に立って考えなさい』との教えを現実の中で実践し、やり通していくには、20歳の女の子には難しい日々が続きます。しかし彼女はがむしゃらに奮闘します。ずっと後になって、北市民館で体験したさまざまな苦労、失敗談を、さも楽しそうに話してくれました。

やがて昭和に入り、同郷の男性と結婚。よき伴侶を得、穏やかな家庭で育児に明け暮れていた時、志賀先生からの呼び出しがあり、都島で保育所をつくり、子どもたちに手を差し伸べてはどうかとの示唆があります(詳細な経過は法人の50周年、60周年、70周年、80周年記念誌に掲載)。

人との出会いは不思議なものです。宗教に生きようとの思いが社会福祉やセツルメント、保育へとつながり、よき伴侶を得たのち家庭での人生が始まった矢先、お金も何もない中、都島公園の青空保育から始めた彼女の保育事業は、今度は都島の大地主だった山野平一様との出会いにより、土地を貸与され、園舎を建てていただき、ついには彼女の理想とする教育的要素と託児所の養護的要素の両方を兼ねた”子どもの館“『都島幼稚園』の誕生となるのです。比嘉、26歳の時、1931年(昭和6年)のことでした。

その後、彼女の幼稚園は志を同じくする多くの方の助けもあり、順調に発展していくのですが、やがて日本は戦争の時代に突入、昭和20年8月15日に敗戦を迎えます。幼稚園は焼かれ、3人いた我が子二人まで亡くし、何もかも失った彼女は、もう仕事はすまいと虚脱と懺悔の日々を送ります。

ところが戦後の日本の社会状況は、比嘉正子の逃避を許しませんでした。貧しく、どこにも行き場を失った子どもたちや女性、母親の姿を前に、「今、この子たちに手を差し伸べねばどうする!」と彼女は再度、都島児童館を立ち上げます。国や行政が動き出す前のことです。

彼女の情熱は、社会福祉事業家として、消費者運動や婦人運動家のリーダーとして、戦前、戦中、戦後、波乱万丈に駆け抜け、ついに故郷沖縄へと向かいます。(いかなる難題にも無邪気に勇敢に立ち向かう比嘉正子の人間形成には、生まれ育った首里の美しい文化や温暖でおおらかな風土が培ったのではないでしょうか。)

沖縄県那覇市首里金城町は、彼女を育てた父や母、共に暮らした兄、姉への思いの詰まった望郷の地です。昭和49年(1974年)、比嘉正子は沖縄の本土復帰記念として、沖縄に念願の保育園を創設します。旧姓渡嘉敷の「渡」をとり、「渡保育園」と名付けました。そして昭和57年(1982年)、法人創立50周年記念事業として、那覇市松島に、2園目の保育園「松島保育園」を設立します。

こうして比嘉正子の社会福祉への想いは、故郷の地にもしっかりと受け継がれることとなりました。運営は親友、伊禮政義、容子夫妻に委ねられ、夫妻の手腕によって比嘉の理想が形になって発揮されていくのです。

渡保育園は沖縄の美しい王宮文化の発祥の地。一方、松島保育園は新しい街、目の前に松島中学校、市立病院、沖縄で唯一のモノレールが通り、交通アクセスも大変良いところです。近くには那覇市で一番大きな森「末吉公園」があり、豊かな自然に囲まれて森林浴もできる子どもたちの散策場所になっています。

現在、渡、松島両園は、伊禮政義、容子夫妻から、伊禮良樹(現 沖縄常勤理事)、伊禮明子、東里正江園長にと引き継がれ、沖縄の風土や伝統文化、さらには沖縄のもつ先取の気風を大切に、保護者、保育士が力を合わせ、乳幼児期の育ちの重要性をしっかりと考えた保育に取り組み、これからの未来を担う子どもたちを温かい心で育んでいます。

クリスチャンとして生きようとする彼女の思いは、人との出会いに導かれ、いつしか社会福祉や保育へとつながり、彼女の蒔いた福祉の種は今日、ガジュマルの木のように成長し、認定こども園・保育園、都島区8ヶ園、城東区1ヶ園、沖縄2ヶ園、発達支援センター1ヶ園(事業10事業)、児童館(事業6ヶ所)、高齢施設2ヶ所(事業9事業)と大きく枝葉を育み、伸びています。

私ども都島友の会は常に初心に還ることを怠らず、時代の流れに沿い、我々の役割をしっかりと見つめ、次代へ繋いでいく覚悟です。今後とも皆様のご支援、ご協力を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

松島保育園の子どもたちと

ゆんたく都島 Vol.30(2019.3)