法人創立90周年を迎えて

都島友の会は本年、創立90周年を迎えます。

昨年来、世界に蔓延するコロナ禍、幸いなことにワクチンが開発、接種が始められたとはいえ、今後どのような推移をたどるかはまだ分かりません。その意味では日本はいまだ国難の中にあるといえます。

法人の歴史、90年という長い時を思い起こせば現在のコロナ禍に比する、いやそれ以上の困難な出来事は多々ありました。1930年代の世界大恐慌、太平洋戦争、大阪大空襲による園舎の全焼、終戦、そして戦後の混乱…。これまで幾度も紹介したと思いますが、法人の創設者、比嘉正子はいわば20世紀という戦争と波乱の時代を艱難辛苦の末、乗り越え、生涯のテーマであった社会福祉の理想と共に駆け抜けてきた人物だったと思います。そして彼女の思い描いた福祉理念は、現在の都島友の会の中にも受け継がれて来ています。

1905年沖縄で誕生幼き頃通った日曜学校で巡りあった永田ツル子園長、ミス・ミード、上原カメ先輩たちと直接的、間接的にも人生の出会いが始まる
1923年大阪ミード神学校へ入学(17歳)大阪市立北市民館へ出入りするうち、志賀志那人館長と出会う
1926年北市民館保育組合の保母となる(20歳)
1928年結婚を機に退職(23歳)(その後、3名の子に恵まれる)
1931年志賀先生より都島で、幼稚園を作るよう指示を受ける(26歳)園舎なき青空保育園から都島幼稚園へと。福祉的幼稚園の始まり
母の会、同園会、自主的に委員会から園庭設備、運営の支援を受ける
この頃の日本は中国との武力紛争、満州事変などにより、戦時色が強まる中ではあったが、園児数は増えていく
1944年1月、2月、病気で愛児(長女・長男)を相次いで亡くす
1945年大阪府より幼稚園の閉鎖命令。3月7日戦前最後の卒園式(45歳)8月広島、長崎に原爆が投下され、太平洋戦争終結
日本の敗戦となる。大阪も大空襲に遭い、都島も焼け野原となり園舎も焼ける
1949年大阪府より保育の復旧指令敗戦により日本の人々は、亡くしたもの新しきものの目まぐるしい変化の中で生きていく
新憲法に基づき福祉の見直しの中、家庭を守る女性たち、主婦たちと共に乳幼児施設、保育所、病院づくりへと歩み出し、その活動は43年後(88歳)まで続きました

縁は異なもの~比嘉正子との出会い、恩人たちとの出会い~

比嘉先生(あえて当時の呼び方でそう書かせてもらいます)との出会いは、ほんの偶然のようなものでした。人からの紹介があり、訳も分からないうちに、「家に来なさい!」(当時比嘉先生のお家にはご主人と二人きりでした)と比嘉先生の家に住むことになり、4、5カ月が経って大阪にも慣れた頃、都島診療所(都島病院)を手伝いなさいということで今度は寮に入り、診療所に勤めることにー。

都島診療所は戦後、比嘉正子が敗戦後の荒れた社会の中で、病は無知や貧困が病魔を広げるとのことから、子どもたちや家庭、主婦を守っていくため立ち上げた低所得者支援のための病院でした。一時労働争議で閉鎖したのですが、診療所として再開していました。

1951年低所得者支援 都島病院開設
1956年社会情勢の渦の中、福祉理念における職員間との相違、労働争議で閉鎖
1960年生命を守る信念はまだ残っており、建物を都島診療所として一部復活
1962年比嘉正子との出会いから都島診療所職員として勤務することになる

診療所では何でもしました。受付、会計、薬局、看護婦、給食、掃除などの手伝い…、すべてが知らないことばかり、そしてすべてが目新しく面白い。私にとっては、「なるほど!なるほど!」の学びの世界でありました。もちろん知らないことだらけでしたから、一つ一つ説明を聞くことだけで精一杯。毎日、院長先生に叱られながら「そうなんだ…」の世界で、他の人たちから「大変だなー」と同情され、泣きもしたが、今振り返ると、叱る院長も大変だったことは後にしてわかる。この時の慰めは唯一、幼友だちの「元気か?頑張っているか?」とのさりげない言葉。時折、顔を見せてくれたり、電話や手紙をくれたり…。懐かしい思い出です。病院の院長(勤務医)と比嘉先生が、立場の違いからぶつかり、難しい問題も起きました。その際、阪大の第一内科、整形外科の先生方にお願いに伺ったりもしました。その頃の出会いが50年、60年経た現在も続いているのも不思議なご縁です。

やがてカルテ整理、レセプト請求、治療内容や薬品名、病名も覚え、衛生管理(清潔、不潔)、消毒など、どんどん出来ることが増えていきました。保険の有無等から患者さんの社会的立場や生活状況を知り、都島保健所、都島区役所の国民保険係、福祉事務所、住民係とつながり、さまざまに教えてもらうことも多かったです。

道端で行き倒れた住所のない人たちの処遇をどうするか。入院では誰が保証人となる?退院後は? 治療費の問題、医療券という制度、そこから民生委員さんとの接点、大阪自彊館(ジキョウカン)とのつながり、住宅問題から市営住宅や府営住宅の申請手続きも覚えました。低所得者支援の病院とはいえ、収入と支出のあり方、職員処遇や医療整備の問題…。善意や理想だけでは成り立たない現実を知り、『経営』というものの大切さを学びました。患者さんを通じて学んだことも│。患者さんが玄関に入ってこられると一人ひとり名前が浮かぶ。人様の名前を覚えることが得意である事が功を奏し、親しくもなっていった。カルテを出し、「どうされましたか?」「お大事になさってください」の声掛けににっこりと笑みを返していただいた。外でお会いしても挨拶することを大事にしてきた。挨拶や他愛のない会話…、それが人と人との、地域の皆さんとのつながりを大切にすることにも繋がっていきました。

そうした病院での経験や医療への関わりを通して、自分が困難な人に差し延べられること出来ることは何かを考える糸口になり、乳幼児から高齢者、地域の皆さん、職員、様々な方々への向き合い方、対し方の礎となり、その中で育まれた思いが、私の「福祉」に対する原点になったように思います。

1968年病院建替担当(建替えることについて何も知らされず)
1969年都島病院新築病院経営には諸々の届け出、資格が必要。都島保健所、大阪府庁へ日参したものだ。9月結婚
1970年7月、長男出産9月、生後1ヶ月の我が子を都島乳児保育センター保育室に預け、事務所勤務となる

 

福祉の道、保育の世界に入る

昭和40年代以降、女性の社会進出が増え、しかし0歳児保育はまだ行われていない時代、法人は国の実験的開拓事業として先駆的に0歳児保育を行っていました。1970年9月、国の監査を受け、乳児特別対策費として保母加算がつくか否かの瀬戸際、当時病院から保育所事務に移った私は保育所の収支業務が解らず、先輩の先生たちの指導で何とか無事監査を終えることができました。その頃は乳児室にわが子を送り届け、事務所勤務をしながら園長や主任保母の手伝いをし、保育のあれこれを学んでいた毎日でした。中でも印象深かったのが0歳児の我が子を「措置児??」と呼ばれる違和感。社会福祉の措置委託制度ではそう呼ばれるのですが、そこから措置制度の意義や必要性、措置費の仕組みや内容の勉強を始めました。

比嘉先生は保育に関して(職員や子どもたち、保護者に向けて)一番良いものを提供することが地域貢献であることを旨とされていました。保護者の肩の荷を一つでもおろすにはどうすれば? おしめや布団はどうする?など、私にも一つひとつ保護者の労力を軽減するための細やかなアイデアを求められます。その際、同年齢の保護者に意見を聞き、会話を重ね、親しい関係が作られていきました。現在の”ママ友“になるのでしょうか、その頃、共に会話を重ね、子どもを育てていた人たちとのつながりは、50年経った今も私の宝ものになっています。

労使対立の時代、園長へ。そして法人経営の道にー。

1973年建設担当をした都島病院が経営困難により閉鎖その建物を乳児保育待機児解消のために都島第二乳児保育センター開設。改修工事担当を兼ね
1976年都島児童センター勤務。法人の幼児保育、障がい児保育、学童保育を学びながら、保育施設の運営に携わる

当時の日本は左翼運動が激しく労使関係も緊張をはらんだ時代でした。都島第二乳児保育センターでも、職員一名、あまりにも勤務態度が悪く退職してもらった。2カ月後、その職員が労働組合に駆け込み、軽頸腕症候群、腰痛など職業病を訴え、労使紛争が起こりました。組合との団交、裁判などで3年間、保育業務は空白となり、その間、労務の勉強、裁判資料やその書類作り、弁護士との話し合いなど、子どもを寝かした後、徹夜もしばしばといった毎日を送ることになります。

また法人では保育施設が増加拡大し、環境整備等の整理を行う中で、保育内容、職員採用、職員処遇、経理など法人としての統一化を図らねばならず、そこから各施設長との軋轢も生じ、様々な非難を浴びましたが、何とかそれを乗り越え、法人の組織強化や現在の法人本部へとつながる基礎作りを進めていきました。

1981年鐘紡(株)の跡、日本住宅公団の友渕街づくり事業の一つ、保育所新設を受け、建設担当を受ける
1983年都島友渕保育園園長に就く

友渕地域の高層住宅街に新設された保育園での園長就任は私のこれまでの経験や学び、その一つひとつを積み上げていくようなものになりました。その一つが子どもの主体性を大切にする保育への見直し。子どもに”させる“から子どもが”する“への転換でした。園長をつとめた間、都島友渕保育園は街の発展と共に園児数も70名→90名→120名→150名と増え、園舎も増改築していきます。(この10年間は、一番穏やかで楽しい日々であった。今はその時育った子どもたちが親になって帰ってきてくれている)。 

1984年 園長兼、法人理事を受ける

組織も大きくなり、理事の先生方の強力なバックアップで法人経営を学ぶ。

1990年 大阪市はJR桜ノ宮駅近く国鉄貨物駅跡を、医療、保育、高齢者施設を備えた新しい街として開発。当法人がその保育部門を受けもつことになり、建設担当を命じられる

1991年 都島桜宮保育園園長を兼ねる 比嘉理事長(87歳)は高齢のため体調不良。仲田貞子理事長代行の補佐を担う

1992年 11月、比嘉理事長逝去。仲田貞子2代目理事長就任。

1993年 都島児童センター園長兼常務理事に就く創設者を亡くした混乱は予想以上に大きく、混乱が収まるのに、数年かかった。(人間関係、考えの違い、裁判etc) 様々な方々に助けて頂きながら、一年一年を乗り越えた。 都島友渕乳児保育センター開設。

1999年 友渕地域デイサービス開設。 土地は鐘紡(株) が大阪市へ寄付。措置制度による開設であった。都島区連合会長はじめ、皆さんの力強い支援を受ける。

2001年 高齢施設建設計画 大阪市へのプレゼンテーションを経験

2002年 東都島地域、西都島地域役員の皆さんのバックアップもあり、「特別養護老人ホーム ひまわりの郷」開設。入居者は大阪市全域からであったが、都島で生まれ育った人々が法人による高齢施設を待ち望んでおられ、入居者の中には昭和6年の青空保育に携わった方々もおられた。

2006年 仲田貞子理事長、体調不良により、3代目理事長職を受ける

2007年 理事長に就任後、法人の保育、高齢施設の見直しと、指示系統を一本化できる法人全体の新しい組織作りに着手。またリスクマネジメント、乳幼児の教育保育、障がい児発達支援、高齢者介護、看護師会など各専門委員会を設置、施設ごとの垣根を超えた自主的な学びやまとめが出来るようになった。また法人全体での職員研修の開始、ホームページの制作や広報誌(ゆんたく都島)発刊など、法人全体の広報に力を入れる。

2011年~2021年 80周年終了後、本部が中心となり、都島児童センター建替、隣接土地の購入、友渕児童センター増改築(№1)、ひまわりネット(子育て、障がい、介護何でも相談室)開設、城東区に成育児童センター開園、大阪市より都島東保育園建物取得、都島桜宮保育園増改築、友渕児童センター園舎改修(№2)、都島児童センター運動場用地購入、特養の全館改修、および地域交流のためのひまわりカフェの併設、都島第二乳児保育センター園舎改修、ひがみや児童センター・それいゆ新園舎建設、都島乳児保育センター新園舎など、次々と90周年に向けて、大きな環境整備を計画、逐次、行っていきました。

またリクルート対策や職員の働き方改革、変形制労働時間制の採用、保育内容の充実、保育ママ事業、つどいの広場、居宅介護支援にも着手し、かねてから政府がおし進めていた日本の幼児教育改革、幼保一元化の政策に合わせて、都島、友渕、桜宮、成育、都島東(現在:ひがみや)各保育園がそれぞれ幼保連携型認定こども園へ移行していきます。保育園との名前はついていましたが法人の原点である教育と保育を両輪としてきた福祉的幼稚園の姿に戻ったのだと思います。その間、都島児童センター竣工一周年記念には下村博文文部科学大臣(当時)講演会を開催、ひまわりネットは比嘉正子地域貢献事業研修センターとして発展的に生まれ変わり、職員たちの自主研究は日本保育協会から実践奨励賞を受賞するなど、自慢したくなることもありました。

2021年 人々に、地域に、感謝を込めた90周年へ

法人の90年、その中で私の半生ともいうべき法人とのかかわり、その中での私の想い、行ってきたこと感じてきたことを駆け足で書いてきました。もちろん書き足りないことだらけです。ただこうして振り返れば、よくぞここまでやってきたなと思います。もちろん私一人で成し遂げられたものではありません。比嘉先生、仲田先生、多くの方々との出会いや教え、大勢の皆様に支えられ、助けがあったからこそ成し得たことばかりです。私も喜寿を迎え、体力も衰え、コンピュータ化、AIなど分からないことだらけ…、どんどん私の能力ではついていけなくなってきた。しかし幸いなことに良き人材に恵まれ、理事、評議員、その他役員の皆様、職員はもちろん、保護者、ご家族、利用者の皆様、そして地域の方々、多くの法人を支える人たちの力で、法人はお陰様で無事90年を迎えることが出来そうです。

この秋には90周年を祝う式典や行事も計画しております。その際には、法人がこの地で、都島の人たちに支えられ社会福祉の道を歩みだした原点に立ち返り、今後法人がよりいっそう地域貢献できる法人となるよう、その誓いと決意と共に、地域や地域の方々への感謝を込めたものにしたいと考えております。”つなぎつないで“、今度は100周年へ。そのスタートは人々への心からの感謝から始めたいと思います。

理事長 渡久地歌子 2021.3.11