沖縄本土復帰50周年に寄せて ~平和への祈念、思い新たに~

原稿を書いている今日、令和4年6月23日は「沖縄慰霊の日」にあたります。糸満市の平和祈念公園で開かれた追悼式には岸田首相が出席され、「沖縄が世界の架け橋」となるよう取り組み「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」「世界の誰もが平和で心豊かに暮らせる世の中を実現するために不断の努力を重ねる」と誓われ、献花されました。

5月15日の沖縄復帰50周年記念式典には、天皇陛下も御所からオンラインで臨席され、「先の大戦で悲惨な地上戦の舞台となり、戦後も約27年間にわたり日本国の施政下から外れた沖縄は、日米両国の友好と信頼に基づき、50年前の今日、本土への復帰を果たしました。大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は「ぬちどぅたから」(命こそ宝)の思いを深められたと伺っていますが、その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いを致しつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます。」と述べられ、「沖縄には、今なお様々な課題が残されています。今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています。美しい海をはじめとする自然に恵まれ、豊かな歴史、伝統、文化を育んできた沖縄は、多くの魅力を有しています。沖縄の一層の発展と人々の幸せを祈り、式典に寄せる言葉といたします。」とお言葉を結ばれました。

戦中、戦後の沖縄の歴史を紐解いてみますと、1945年(昭和20年)4月、アメリカ軍が沖縄本土に上陸し、日本軍と激しいで地上戦が繰り広げられ、日本軍9万4136人、米軍1万2520人もの死者を出し、9万4000人以上もの沖縄の住民が帰らぬ人となりました。沖縄出身の軍人・軍属を含め、県民の4人に1人が亡くなったと言われています。1945年8月15日に終戦、日本は敗戦国となった訳ですが、同年9月から1972年5月までの27年間、アメリカは沖縄を統治、米軍基地が次々つくられ、通貨はドル、車は左ハンドル、車は右側・人は左側通行などアメリカ統治下の時代が続きました。その間の時期を沖縄では「アメリカ世」と呼ぶそうです。

私事ですが、1969年(昭和44年)沖縄がまだアメリカ統治時代、私は沖縄の人と結婚し、年末から正月にかけて初めて沖縄へと帰省しました。その時はパスポートが必要でした。飛行機で行けば2~3時間のところ、船旅を経験したいということで、関西汽船の黒潮丸で1日半(33時間)かけての旅をしましたが、大変でした。船酔いはする、体力的にも厳しかったです。与論島を過ぎると税関(海港)職員が乗り込み、荷物チェックです。その物々しいこと、忘れられない記憶です。

1972年本土復帰後、日本政府は沖縄振興に力を注ぎ、道路拡張整備、公共の建物の建て替え、離島との架け橋等、インフラ整備が行われ、現在では観光リゾート施設や空港などの社会資本は充実発展していますが、天皇陛下のお言葉の通り、今も自然は豊かに残っています。那覇空港から2時間、3時間ぐらい行くと、最北端には辺戸岬、カルスト地域、大石林山があります。又、ヤンバルマングース森林等、太平洋と東シナ海がぶつかりあうキレイな海。海の底まで見える時もあります。天気の良い日は鹿児島県与論島や沖永良部島を眺望できます。また沖縄は世界に誇るべき伝統芸能があります。琉球舞踊、組踊、エイサー等は、昔から多くの人々に愛されてきた誇るべき文化です。

沖縄と法人の関わりについて

私たち法人と沖縄とのつながりについては、これまで再三述べてまいりましたように、法人の創設者 比嘉正子(旧姓 渡嘉敷周子)は沖縄に生まれ、17歳で那覇の教会の洗礼を受け、単身沖縄から大阪バプテスト女子神学校(現在ミード社会館)に入学。やがて大阪市立北市民館で館長志賀志那人先生からの薫陶を受け、社会福祉事業の道に入ります。1931年比嘉正子26歳の時、彼女の理想とする教育的要素と養護的要素を兼ね備えた〝子どもの館”『都島幼稚園』を創設、以来、戦前戦中戦後と現在に至る法人の礎を築いていきます。

1974年(昭和49年)には沖縄本土復帰記念事業として、自身の生誕の地、首里金城町に保育園を設立、旧姓渡嘉敷の「渡」を取り、渡保育園と名付けました。永らく故郷沖縄と離れ離れになっていた比嘉正子にとっては、まさに念願叶った思いだったことでしょう。1982年(昭和57年)には法人50周年記念事業として、那覇市民病院の近くに松島保育園を設立。こうして比嘉正子の社会福祉への思いはしっかりと故郷沖縄に受け継がれていくことになりました。

さて沖縄本土復帰50周年の記念すべき年に、現在、私たちは二つの大きな厄災に翻弄(ほんろう)されています。一つはこの3年間猛威をふるっているコロナ禍。そしてもう一つが本年3月に始まったウクライナ危機です。昨年2021年、私たち法人は90周年を迎え、式典の準備までできておりましたが感染拡大のため執り行うことは叶いませんでした。しかしこの3年間、職員は法人施設の子どもたち、保護者、高齢者の皆さんをどう守るか、施設からは何としてもクラスターを出さないと一丸となって奮闘、頑張ってくれました。

一方、本年3月以来、私たちはロシアのウクライナ侵略を目の当たりにすることになり、戦争のむごさ暴力の残酷さを改めて目のあたりにすることになりました。コロナ禍、ウクライナ危機、この二つの大きな厄災は今もなお終焉することなく、私たちの前に立ち塞がっています。本日「沖縄慰霊の日」に寄せて、あらためて平和の尊さ大切さを胸に刻み、誰もが平和で心豊かに暮らせる日が一日も早く戻ってきますように願わざるを得ません。

最後になりましたが、この4月29日、令和4年度の叙勲において、瑞宝双光章(児童福祉功労)を受章の栄誉に浴しましたところ、多くの皆様からご丁重なる祝詞お祝いをいただきました。誠にありがとうございます。今回の受章は私自身というより法人を代表していただいたものと考えております。今後も社会へのご恩返しのために些かなりとも努力を続ける心算です。

社会福祉法人都島友の会は100周年に向けて、地域の皆様とともに歩んでまいります。

7月30日(土)には帝国ホテルで、職員、地域関係者の皆様へ感謝を申し上げたく「お祝いと感謝のつどい」を開催、誠に身に余ることですが私も、〝ご相伴”に与らせていただきます。地域に愛され、必要とされる社会福祉法人として、職員一同より一層力を入れてまいります。これからも温かいご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

2022.8.9